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2016年07月13日
編集部編集部

「高校3年時に広島市民球場完成、一緒にプレーした仲間にはケロイドをやっている者もおりました」高校野球100年、迫田穆成氏が語る戦後70年目の広島の夏(前編)

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迫田監督
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※このインタビューは2015年7月に収録しました。

 

原爆が投下された時、私は6歳でした。この夏、広島は戦後70年目の夏を迎えます。私は76歳になりました。

率直に申し上げますと、もう70年も経ったのか、とそういう気持ちですね。昔のこともつい最近のことのようにも思えるんですよ。

私が現役の時には(広島商で)甲子園に行って(1957年、第39回全国高校野球選手権大会で)優勝して、当時はまだカープが弱かった頃ですから、街が大騒動になったんです。その年の夏に、私たちが高校3年の時にちょうど広島市民球場も完成しました。(同年7月24日が球場開き)それで私たちは夏にはまだ使えませんでしたから、11月の広陵との定期戦で初めて市民球場を使わせてもらいました。よく覚えております。お客さんもたくさん来られて利益が500万円ぐらいあったんではないでしょうか?だから市民球場は我々にとってはすごく愛着がありますね。

その時、一緒にプレーした仲間には一番を打っておったんですがケロイドをやっている者もいました。当時のマスコミにも取り上げられました。私の周りで言えば小学4年の時と中学2年の時に同級生が原爆症で亡くなっています。葬儀に行くと「お前らもそこらが出るかもしれないから注意しなさい」と言われ「そんなこと言われても…、わしらも原爆症で死ぬるんかな…」というようなこともあったんです。

弟がいたのですが原爆で亡くしました。2才でした。ちょうど病気で(今の西区)己斐の家で寝ておったんです。私もその時にはまだ幼稚園ですから家におりましたが、すぐに親戚のおばちゃんが来てふとんをかぶって、すぐ下の弟と山に逃げました。それから夜になって、佐伯郡の方からおじさんが二人来て、自転車に乗せられて廿日市の奥の下河内というところへ向かいました。

おやじは大八車を引いて、おふくろは今の新庄のやつがお腹におったんでそれに乗せられて…。それで急に動かした、ということで7日に2才の弟は息を引き取りました。大した病気じゃない、と聞かされておったんですけどね。

おやじも69で亡くなりましたが、兄弟はみな80を出ていますから、やっぱり勤労奉仕で街に出ておって毒を吸ったのが影響しているのではないでしょうか?市役所の前あたりで家を壊しておって、ちょうどトイレの中に入っていたんだそうです。だから狭くて頑丈で助かったんですね。36人が行かれて、帰ってきたのはふたりだけでした。

9つ上の姉も街中の女学院に行っておったんで、これもまたおらん、いうことになって毎日、おやじが探しに出て、続けて毒を吸った形になったんでしょう。おやじは30代で総入れ歯になりました。頭髪も抜けて…。それが69まで生かしてもらいましたから、それはすごくありがたいことなんですけどね。

姉はまだ生きていますが、膝の皿を切ってしまって動かそうと思えば動くんですが日赤に入院しておりました。

当時はおふくろが出産で寝ておって、姉もそれで寝ておって、おやじもそのうちに倒れてしまって、そんな状況でまあ自分は子供でしたからそうもなかったのでしょうが、大人だったら相当まいっておったと思いますよ。

迫田監督

迫田穆成(さこた・よしあき)
1939年7月4日生まれ。広島市己斐(現西区己斐)の自宅で6歳の時に被爆。姉と父親は爆心地近くで被爆し、弟(守昭、現新庄高校野球部監督)の産み月だった母親は出産が9月になった。

翌年、己斐小学校1年生時に学校のグラウンドで野球と出会う。中学時代には「日独青年交換会」の国内メンバー8人に選抜され、1カ月間西ドイツに短期留学。

1955年、前年に再編されたばかりの広島県広島商業高等学校に進学。2年時には主に「八番レフト」で春夏連続の甲子園出場。翌1957年の第39回選手権大会では、主将としてチームをまとめ「広商4度目の夏制覇」を成し遂げる。

卒業後は家業の洋服店後継者として働く傍ら、社会人野球、高校野球の審判などを務める。野球との関わりが続く中、1966年に広商からの要請を受けコーチに就任、翌1967年秋、監督就任。1969年、第41回センバツでは早々と甲子園ベスト8。

さらに1973年、第45回センバツでは、佃正樹、達川光男のバッテリー、金光興二、川本幸生、楠原基らを擁し、「怪物、江川卓」を攻略して準優勝。金属バットの使用が最後となった同年夏の甲子園決勝、静岡高校戦では九回一死満塁からスリーバントスクイズを決めて「広商5度目の夏制覇」を成し遂げた。

翌1974年夏も甲子園へ。しかし準決勝で習志野高校エースの小川淳司(現東京ヤクルトスワローズ監督)を攻略しきれず敗退。その責任をとる形で監督を辞任した。

その後は、他県の高校のコーチ等を務めたあと、1993年、如水館高校の開校を控え、前進である三原工業高校野球部の監督に就任。1997年夏、春夏通じて同校初となる甲子園出場を果たす。以来、夏6度、春も1度甲子園へ。2011年の第93回選手権では初戦から3試合連続延長戦勝ちを収めて、甲子園ベスト8進出。

実弟の迫田守昭も広商監督などを経て2007年秋より新庄高校監督。2014年春、同校を県北勢初の甲子園へと導き今夏の広島大会では如水館を準決勝で破り同校初の甲子園夏切符を手にした。

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