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2016年01月02日
編集部

紆余曲折の過去を踏まえて、旧広島市民球場跡地に一刻も早くサッカースタジアム新設を!その意義を2016年、年明けに探る(3)

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旧広島市民球場跡地
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    ダグ

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2012年2月で解体終了となった旧広島市民球場。耐震性の問題などもあったが、当時の市民の間には「次の活用策が決まるまで球場を残すべき」との声が根強かった。市民の懸念は現実のものとなり、跡地が「空地化」してもう4年になろうとしている。

 

旧広島市民球場跡地に一刻も早くサッカースタジアム新設を!その意義を2016年、年明けに探る。

第3弾は2012年11月にひろスポ!運営母体のスポーツコミュニケーションズ・ウエストから発刊された「CARP2012-2013永久保存版」に掲載された特集「広島市民球場跡地には複合型多目的スタジアムが必要不可欠」を3回ないし4回に分けて紹介する。

永久保存版

なお、2012年11月の時点ではまだサッカー関係者は”様子見”の状況で「スタジアム建設候補地に旧広島市民球場跡地がふさわしい理由」を関係者の声をもとに記事にしたのは同特集が最初となった。

1回目は同特集の中で紹介された「旧広島市民球場解体と 球場跡地を巡る動き」について。この経緯を把握しておかないと、今のサッカースタジアム問題がこじれることになった本当の理由を抑えることにはならない。

なお、※の部分は今回、補足した。

旧広島市民球場解体と 球場跡地を巡る動き

2005年3月
広島政財界トップなどで構成する「新球場建設促進会議」が6回の会合を経て「都心の中枢機能の向上等の観点から、現在地(旧市民球場のあった場所)での建て替えを検討。実現困難な場合はヤード跡地への新設を検討するがその場合は併せて球場跡地の利用方策検討のこと」と結論。
この会議で広島市が配布した「事業費比較」の資料に球場建て替え、新集客公園施設、サッカー専用スタジアムの3案併記。

※この時点ですでにサッカースタジアムが候補にあがっている。

2005年6月
当時の秋葉市長が「新球場建設促進会議の決定」を覆し貨物ヤード跡地への球場建設決定。同時に「跡地に年間150万人集客施設」(注・公園ではない)を整備することを約束。また、跡地整備事業は「2009年度着手」と発表。

※松井市長はすでに年間集客数を定めない、と発表済み。「2009年度着手」としたのは、球場移転からインターバルなしに跡地に賑わいを保つため。見事にその逆目が出ている。

2005年11月から06年1月
市民、民間から跡地活用策募集。集まった「市民からの声」377案を分類すると「観光賑わい施設」と「スポーツ文化施設」がともに全体意見の3割以上、「平和発進機能」は4パーセント。

※平和発信機能、とあるのは当時の秋葉市長が跡地に折り鶴関連施設を新設することに固執したため。

2007年8月
民間から募集した26案を「選考委員会」で絞り込むが「最優秀作品」が決まらず優秀作品2案(「森のパビリオン」と「折り鶴ホール」)が残る。市議会から「最優秀作品該当案がないなら2案にこだわる必要なし」の声。

旧広島市民球場跡地
※跡地活用策について広島市ではコンペを実施。6件の事業計画案が集まり、この画像にある「平和を祈念する折り祈念堂と市民の森」も残った。今回の連載で広島市議会議員、石橋竜史氏が証言したように、地元の人々の「暗い公園は不要」との声に抗う結果となっている。なお、選考委員会の議事録は肝心の最終結論の部分が”不鮮明”なままになっている。

2008年2月
広島商工会議所と秋葉市長が跡地問題で意見交換。「コンペに参加していない商工会議所が参加するのはおかしい」の声が各方面よりあがる。

2008年8月
広島商工会議所ビル移転を前提にした跡地活用案のたたき台を広島市が発表

※この時期の前後から広島商工会議所ビルの建て替え移転問題と跡地活用策が急速にリンクし始める。現在もこの件に関しては無関係ではいられない。

2008年10月 たたき台に対して「意見を聞く会」を広島市が実施。参加22団体は異口同音に「結論を急ぐな」「しばらく球場のまま活用を」「ゼロからやり直して欲しい」

2009年12月 旧市民球場の解体を前提とする「菓子博」の開催が決まる。

※「菓子博」開催を優先して、球場存続の可能性が急速に薄れた。

2010年3月 市議会がオリンピック招致費用と旧市民球場跡地活用計画関連予算などを削除、減額した修正案を可決。秋葉市長「再議権」発動、混乱広がる。

※跡地への折り鶴関連施設と独断先行の広島五輪開催が秋葉前市長のライフワークだった。

2010年6月 広島市議会、建設委員会で「旧球場廃止条例案」賛成5名、反対3名で球場解体決まる。 広島市は、旧市民球場跡地整備のイメージパースを盛り込んだ「旧広島市民球場跡地整備の概要と新たな賑わいづくりに向けて」という資料を市HPなどで発表。東大門デザインプラザ(DDP)は、実はかつての野球場のあとに建てられた。まさに「球場跡地活用策」のひとつ。新サッカースタジアム取材班が現場を歩いた感覚では「大失敗だったのではないか」というのが率直な印象だ。

※広島市HP
www.city.hiroshima.lg.jp/www/sp/contents/1288567798338/index.html

※現在、サッカースタジアムと並行して広島市が検討する旧広島市民球場跡地での「イベント広場」などをレイアウトする活用策のプロトタイプがこの時点で固まった。

旧広島市民球場跡地
旧広島市民球場跡地
※右手のビルが移転した広島商工会議所ビル、現在同ビルがある本川河岸手前には桜が咲いている。わかりにくいが右手奥、新商工会議所ビルの北側にこの時点ではまだ何に使うかわからない不思議な?「文化施設」が描かれている。なお当時、文化施設の必要性を強く訴える関係者に「イベントと言うが広島グリーンアリーナとどこが違うのか?」の質問が飛んだが回答者はゼロだった。

2010年10月
サフフレッチェ広島のペトロヴィッチ監督(当時)が、ナビスコ杯決勝を前に「決勝に勝って、広島はサッカースタジアムを持つに値するクラブだとアピールしたい」と発言。

※森保監督が昨今、その必要性を訴えている「マチナカスタジアム」についてもう5年も前に現浦和レッズのペトロヴィッチ監督が訴えている。広島でサッカーに携わる関係者であれば誰でもそうだが、為末大氏同様、グローバルな視点で見てもやはり”そうなる”。

2010年12月
旧市民球場解体始まる。

旧広島市民球場跡地
※”壊れかけ”の広島市民球場、多くの市民がその様子に胸を痛めた

2011年4月
松井新市長誕生。選挙公約の中で「球場跡地は若者を中心とした賑わいの場に」。

※この時点ではサッカースタジアムもその有力候補のひとつだった。

2011年10月
広島市が選んだ委員22人による「旧広島市民球場跡地委員会」スタート。ただし、委員会は「案の絞り込み」を行うものではなく、様々な案を議論、検証、評価し「最終決定は市がする」(広島市担当者)というスタンス。

※旧広島市民球場跡地委員会は結果的には混乱に拍車をかける形になった。それは各委員の責任というよりは、委員会の存在をあいまいな立場にした広島市の責任と考える。

2012年2月
旧市民球場解体終了

2012年8月
県サッカー協会、サンフレッチェ広島とその後援会が松井市長、湯崎知事、経済団体トップらに「スタジアム建設要望書」提出。 「旧広島市民球場跡地委員会」が第5回会議の中で「まとめ(案)」を発表。「今後さらに議論を深めていく主たる機能としては、本委員会で意見の大勢が推した“文化芸術機能”と“緑地広場機能”とする。さらに、意見の分かれた“スポーツ複合型機能”についても、その有用性を主張する強い意見があったことを踏まえ、引き続き検討の対象にする」

※よって、旧広島市民球場跡地委員会の最終結論は際めてあいまいなものとなった。この流れは、その後の旧広島市民球場跡地にまつわる話し合いのすべてでついて回ることになる。危機感を抱くサンフレッチェ広島ら3者が建設要望書を提出したが、この時の大きなテーマ、要望の趣旨は「早期建設、早期実現」だった。しかし、このことがのちの話し合いの中ではまるで重要事項になっていないようなやりとりが繰り返されている。

2012年9月
サッカースタジアム建設早期実現を目指す「START FOR 夢スタジアム HIROSHIMA」発足,20万人を目標に署名活動本格化。

※「早期実現」を切に訴える署名はとっくの昔に40万件を超えており、当初、紙屋町で署名活動の先頭にも立った森保監督は「集めた我々の責任を考えてもただ黙って待ちの姿勢でいるわけにはいかない」と昨年末にコメントしている。

新サッカースタジアム取材班

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