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2016年11月25日
編集部

「サンフレッチェ広島の顔」から新たなステージへ、佐藤寿人、移籍会見で「大好きな広島の街」へ…

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佐藤寿人
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※記事内容を「速報」から「改訂版」に差し替え済み

 

サンフレッチェ広島で3度のJ1優勝に貢献するなど、12年間に渡って「広島の顔」として活躍した佐藤寿人が11月25日午後、広島市中区のホテルで移籍会見を開いた。

佐藤寿人会見

わたくし、佐藤寿人は愛するクラブ、そして愛する広島を離れ来季から名古屋グランパスへ移籍することになりました。いろんな思いのある中でのこの決断となりましたが、この記者会見でみなさまの前で、自分の言葉でその思いを伝えたいと思います。

(率直な気持ちは?の問いに)

決断してそんなに日が経っていない、やはりまだ寂しさももちろんあるし、今シーズンが終わっていない部分もあるのでまだ来季に頭が言っていない部分もある、正直、自分が広島を離れる、大好きなクラブを離れるということが、ほんとに来季そうなるのかな、とまだ実感が湧かない。

自分が決めたことですが、自分のことでないような、それだけの思いがこのクラブとこの街にはありますし、その寂しさを乗り越えていかなければいけないと思います。

(頭に一番あったことは?)

僕の願いというか、一番の理想はこの素晴らしいクラブ、素晴らしい街で、現役を全うし、先週素晴らしい引退セレモニーを行った同い年の森崎浩司選手のような形で終えることができたらな、というのはここ数年、ベテランという年齢になりプレーを続ける中でそういう思いがありましたし、そういう思いがある部分と、今シーズン、なかなかチームの力になれなかたった悔しさであったりいろんな葛藤がある中で、やはり戦いたいというか、自分の中でどんな時でもチームの勝利に貢献したい思いが強くあったので…

非常に難しい決断でもありましたし、12年間、このクラブ、街でプレーし生活させていただく中で、人生の3分の1を過ごしてきて、ただの12年間でなく、素晴らしい時も苦しい時も、戦ってこれたというところで、自分からわざわざ、好きなクラブ、街を離れる必要なんてないのかな、とすごい思ってましたし、これはもう最終的にはクラブ、フロント、スタッフの方々の理解がある中で話が前に進んだことではありますし、この決断でたくさんの方に迷惑をかけてしまった部分もある。そういう、最終的には僕のわがままを理解してくれたクラブに本当に感謝したいです。

(誰に相談を?)

一番は、いつも隣にいてくれる妻に相談しました。

僕の気持ちは、隣で分かってくれていると思うので、隣で悔しい思いをしている時もいい結果を出している時も、僕の思いは分かってくれていたと思うので、最終的には僕の決断を家族としてサポートしていく、と言ってくれた。3人のこどももいますし、普段の生活のベースは広島にあるので、名古屋へ行くことで負担も増える。家族の理解がないと前に進まない。

サッカーの部分では、チームメートにも相談しましたし、いろんな形で僕に関わってくれた人生経験豊富な方々にも相談しましたし。もちろん、簡単な道ではないと十分理解しています。本当に、3回優勝したクラブを離れる、たくさんの勝利を分かち合った仲間とプレーすることを今回の決断で諦めなければいけないことは、非常に難しいというか、なかなか…。やっぱり自分ひとりでここまでやってきた訳じゃないですし、仲間とやってきたので、そのチームメートと来季、いっしょにサッカーできないのはすごい今、悲しい。

もちろんプロの選手であれば、入ってくる、出ていくことは普通に起こることですし、ずっと同じメンバーでサッカーすることがないのがプロの世界なので、それを今回の決断で、それを諦めるのは、すごい辛いというか、正直悲しい気持ちがありますし、それだけたくさんの思いがこの素晴らしい仲間とやってきたという思いがあります。

いろんな方に相談しましたが、最終的には自分がどうしたいかで決断しようと。僕のわがままを最大限尊重してくれた家族とクラブのスタッフがなければ今回このような決断はできなかったと思うので感謝したいです。

僕がこのクラブ、日本人選手ではボク、和、浩司が最年長ですし、その中がクラブが転換期を迎えているこおはよく理解しています。その中で来季、クラブから戦力だと熱意を伝えてもらったんですが、ただ今シーズン、なかなかコンスタントにピッチに立って勝利に貢献できなかった。

来季残って、ポジションを奪い返す考えもあると思いますが、クラブが転換期を迎え新たな方向へ向かっていく中で、こかからどれだけ結果を残していけるかという、自分の思いとクラブの思い…。クラブは新たな方向に進んでいかないといけない。その部分で、自分としてはこのような決断をしないといけないと感じました。クラブ側からは最大限の残留の言葉をいただいた。ただ、やはり、ピッチ上でフル稼働してチームの勝利に貢献したいという自分の思いがありました。あとは、先ほど言ったのですが、このクラブで現役生活を全うするという思いがありますし、そこで、福岡戦で浩司選手の素晴らしい引退セレモニーを見た時、僕ももしかしたら来年、こういう形で引退セレモニーを迎えるんじゃないかと正直、思いました。

その後、2試合出場機会なくて、その時思ったのが、素直に悔しいというか、自分はまだまだやれると思ってますし、やりたいと思ってますし、まだ辞めたくないという、まだ戦いたいという思いが強く感じられたので。ただ、そうは言ってもやっぱり大好きなクラブ、街を離れるのはなかなか、考えられることではなかったので、考えても答えが出ない部分もありましたけど、とにかく早く決めないと両クラブに迷惑がかかる思い、採取的には戦いたいという一心で決めました。

佐藤寿人

(名古屋のオファーがあった時の気持ちは?)

ベテランと言われる選手へのオファーは簡単ではないと思うし、J2降格でまた本来あるべき姿にクラブを戻す、という中で話をしていただき、純粋に選手として評価していただいたことは嬉しいと思いましたし、「まだまだやれるところを証明して欲しい」と言われたことは嬉しい部分でした。

(正式にクラブに話が来たのは)

天皇杯鳥栖戦前後です。

(監督は風間氏が有力視されていますが…)

正式発表がなく、まだコメントしづらいですけど、ここ数年、川崎フロンターレで主導権を持ったゲーム運びができるチームを作り、今シーズンは年間勝ち点2位のクラブを率いてる監督さんで、また何よりそのクラブでキャプテンとしてステージ優勝に貢献した偉大な先輩でもあると思うので、そういう先輩の指導が受けれるならいろんなことが学べると思います。

(1年でのJ1復帰については?、サンフレッチェ広島でも1年で復帰したが…)

広島が降格した時と今年の名古屋ではいろんな要素で違いがあるので…。ただひとつ、絶対に必要なことは、クラブと選手とそれを支えるサポーターの人たちがが、ほんとにまとまって闘わないと1年を乗り切るのは難しい。また、また長丁場で苦しい時期がある、そこで崩れるクラブは1年で復帰はできない。広島で2008年、1年で復帰できた時は、最初うまくいかなくても我慢しながらポイントを積み上げ、その後優勝に繋がるサッカーのベースを、2008年に築けたのかなと思います。

(サンフレッチェ広島で成長したことは)

広島に来るまで、自分がどうやったらゴールを決めるかしか考えてない、わがままなストライカーでした。サンフレッチェ広島でいろいろな経験をさせてもらって、苦しい時も一緒に戦ったおかげで、少しずつですけど大人のサッカー選手になれているかなと感じているし、たくさんの素晴らしい選手、スタッフと仕事ができてこれているのはほんと、恵まれている。

一番は2012年の初優勝。でも2012年に繋がった2008年のJ2のシーズンが僕の中では一番、思い入れが大きい。2007年の降格でたくさんのファンの方たちに悲しい思いをさせましたし、地元広島の人たちにも悲しい思いをさせてしまい正直、2008年にスタジアムにぜんぜん人が来ないんじゃないかという恐怖心があったんですけど、苦しい時に広島の人たちがクラブ、選手を支えて一緒に戦ってくれたことがその後のクラブの大きな成果に繋がっていったと思うので。

一番苦しい時に背中を押してもらいました。いい時は、いろんな人が拍手を送ってくれるけど、苦しい時にどれだけの人がそこに寄り添ってくれて一緒になって物事を考えてくれるか。人間の本質が一番見える部分でもあると思うので。その時に、やっぱり広島に来て一番良かったな、と。広島で生まれたかった、広島で育ちたかったなと思いました。

残念ながら僕は広島出身の選手ではないんですけど、僕の3人のこどもたちは広島弁を話してますし、生粋の広島人の息子たちを見ると少し嫉妬しますし、2008年の苦しい時に一緒に戦ってくれた人たちがその後の素晴らしい成果を得ることに繋げてくれたのかなという感じです。

(広島から名古屋へどんなものを持っていくか?)

広島での成果は過去のもの。またイチから結果を出さないと認めてもらえない。この移籍が自分にとって、両クラブにとっていいものだったと言っていただけるよう、しっかりやらないといけない。ほんとに険しい道のりだと思いますが、いい準備をしていい成果を上げられるように。またそういう部分を広島のマスコミの人たち、広島の人たちに少しでもお見せすることができれば今回の決断は僕にとっても良かったものだと思えるし、今シーズンまだ終わってないので、天皇杯で浩司のためにも一緒に4つ目の星を、タイトルを取って、今シーズンを締めくくりたいと思います。

(プレイスタイルはそのまま?)

僕がこのクラブで218のゴールを決めることができてるんですけど、そのゴールひとつひとつで僕は評価していただいたと思っている。そういうものを来季、名古屋のユニホームを着て、やはりストライカーという孤独なポジションでありますけど、そこでゴールという形でチームを引っ張ることが生きがいだと思っています。

(サポーターへのメッセージを…)

2005年、J1で11点しか取ってない、将来どうなるか分からないような選手をクラブに迎えてくれて、背中を押してくれて、そのおかげでたくさんのゴールをみなさんと一緒に決めることができましたし、たくさんの試合で勝利の喜びと、2012年、13年、昨年と3度リーグ優勝できたことは僕自身のサッカー人生でほんとに素晴らしい時間でした。

たくさんのサポーターの人たちに、残って一緒に戦おうと熱い思いを送っていただいたにもかかわらず、今回こういう結果になって非常に心苦しいですし、ただこれからもゴールを決める姿を、サンフレッチェ広島のファン、サポーターの人たちにも、チームは変わりますが見ていただければなと思っているので、そのためにもっともっと努力していかなければいけない。これからの挑戦が非常に難しいものになると思うんですけど、自分もこれから成長できるということを結果で証明したいと思っているので、今回このような決断をしたことで来季以降、ともに闘うことができなくなりますけど、引き続き、プロサッカー選手、佐藤寿人を広島から応援してもらえればありがたいし、また僕以上にこれからもサンフレッチェ広島を熱い声援で支えていってほしいです。

また今、若い選手がたくさん伸び悩んでいる、そういう選手を支えていただき時には叱咤激励していただきこれからももっともっと素晴らしいクラブになっていけるようサポートしていただければなと思います。

※以下、要旨のみ

(息子さんたちについて)

たぶん息子たちは、この親父矛盾してるなと思っていると思います。なかなか活躍できず帰ってくると、気を使っていたし、僕がピッチに立たないことにああだ、こうだ言ってました。

プロサッカー選手は華やかですが30人いれば、いろいろなストレスを抱えながらチームの目標へ向かっている。その難しさを子どもたちに感じて欲しいと、そういう話もしたし、もがいてこの好きな街でやりきるよ、と話したので、何て矛盾してると…

ただ、もっとグラウンドに立ちたいという思いを多少、分かってくれたかなと。

物心ついた時から周りに紫色のものがあって…、正直、こうなったのも自分の力のなさ。それをしっかり受け止め、いい結果を息子たちに、ゴールを決める姿を見せていきたいです。

(来季、18年目に向けその原動力は)

純粋に期待に応えたい、それに対しての不安もある中、この決断がいい結果が出ないと、広島で引退しとけばよかったねと、言われる。オファーしてくれた名古屋のために、送り出してくれたクラブのために結果を出さないといけない。恐怖感、不安はあるが全身全霊戦っていく。

(決断の揺らぎ、森保監督への思いについて)

今回、移籍報道がなされた時、たくさんのファン、サポーターのみなさんから残って一緒に戦おうと言ってくださった。また今季、同じように苦しんだことも伝わってきた。常に気持ちが揺らぐ、この方たちがいたから自分はファイティングポーズをとってこれた。その期待に応えられないのが申し訳ない、悲しい。

自分が春先、ケガをして、監督にこいつを使いたいと思ってもらう、それができなかった。一方で多くのファン、サポーターがピッチに入ってくることを期待してくれました。それに応えられなかった悔しさが決断にも繋がりました。

12年間、いい時も苦しい時も常に一緒に戦ってくれた、最高の12番目の選手たちに感謝したいです。

森保監督とは、ベガルタ仙台でチームメートとしてプレーし、広島に来てからは選手、コーチの関係だけではなく時には家に招待してくれて、一緒にサッカーを見ることもありました。

ただ自分が少しストレスを抱えている中で、プレーしていることを見抜いて、厳しい言葉と温かい言葉で僕に対して諭してくれた、そのあと監督として広島に戻ってくれてからは、たくさんの素晴らしい時間を森保監督と過ごすことができました。

今シーズン、このような結果になってしまったことは自分の力のなさという思いと、ただこれは今年1年だけの結果ではなく、森保監督が監督に就任してからたくさんのゴールを期待して僕をピッチに送り出してくれたことは、とても感謝したいです、ま今シーズン、途中から出てチームの力になれなかったことは非常に申し訳ない思いと、まだまだ自分がやれるという思いを、監督という立場でありながら、今回快く送り出してくれることに感謝したいと思います。

(また広島に戻ってくるかどうかは…)

それは来季以降、自分がどれだけピッチ上で表現できるかにかかっている。いずれ大好きなこの街で仕事ができるよう、まあ、ありえない話かもしれませんがまたオファーがもらえるよう、未来のことはわからない。ただ、功労者だからとか、そういう甘い考えでなく、ひとりのサッカー人として還ってきたい。

来季以降、サッカー人生を懸けて戦いたいです。

(広島のこどもたちへ)

スタジアムに入る時にたくさんの11番のユニホームで迎えてくれることをたくさん見てきたし、試合後もたくさんの11番を見たし、多くのこどもたちに悲しい思いをさせてしまうのは非常に申し訳ない思いでいっぱいです。

ただ、来季もっともっとクラブのことをこどもたちはもっともっと応援してくれると思うし、将来サンフレッチェでプレーできるよう努力して欲しいですし、そのこどもたちの中から、将来自分の背負ってきた11番を身にまとってプレーする選手が出てきてくれれば幸せなことだと思います。

12年間、素晴らしいクラブでプレーさせていただき、ひとつのサイクルが終わりますが、またこの先のサイクルが素晴らしいものであるように、いろんな方々に支えていただき、また自分もどういう形になるか分かりませんが、そこに携わっていきたい。その時にサッカーをやっている少年少女がファン、サポーターになってサッカースタジアムでサンフレッチェのタイトルを応援している姿を期待したいと思います。

(仙台から広島への移籍と比べて)

あの当時はまだ、自分も22、3歳で若く、広島の掲げるビジョン、日本代表でやりたい。とにかく結果を出さないと高いステージでやれないプレッシャーもありました。今回となかなか比較できないけど、今回の12年、濃い中身、街全体で喜びを分かち合う瞬間にいれて、広島に戻ってほっとする感覚がある中、第2の故郷を離れる決断は…。正直、最初オファーをもらった時は移籍しないだろうと。ただ考えていく中で挑戦しないといけないとなった。間違いなく言えるのは、34年の人生の中で一番悩み葛藤した時間でした。

(将来、サンフレッチェ広島と対戦するとなれば)

めちゃくちゃいじわるな質問ですね。1年でJ1に戻すということは、大好きなクラブ、街と対戦しないといけない。来季、天皇杯もある。どのタイミングで対戦するかわからないが、1年で本来あるべき姿に戻し、その時の心境がどうなるか?サンフレッチェ広島のサポーターのみなさんも複雑な新居を抱いていると思うけど、分かち合った喜びは変わることはないので、誇りを持ってやっていきたい。

(来季の目標は)

とにかく1点でも多く点を取って、広島の時、J2の得点王になれたので、来季もそれを目指したい。

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佐藤寿人
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