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全国高校サッカーや箱根駅伝生みの親、元日テレの坂田信久さんが、偲ぶ会で今西和男さんに語りかけたこと

今西さん

画像はエディオンピースウイング広島の大型映像装置に映し出された今西和男さん

 

W杯で頂点を目指すという今の日本サッカーがまだアジアの壁すら破ることができていなかった1990年代後半以降、Jリーグ誕生(完全プロ化)による日本代表強化の推進とJクラブの普及発展、あるいは数多くの指導者育成に多大なる貢献をした今西和男さんを偲ぶ会が6月27日、エディオンピースウイング広島であった。

 

株式会社サンフレッチェ広島の久保雅義代表取締役社長を中心とした偲ぶ会実行委員会が関係者らに声をかけ、サッカー関係者、メディア関係者など約300人が参列した。

久しぶりに出会った参列者同士では、近況報告もそこそこに今西さんとの思い出話に花が咲いた。

 

サンフレッチェ広島のクラブ創設に深くかかわり、サンフレ総監督として広島に紫の旋風の種を撒き、育てた数多くのエピソードはすでに広く知れ渡っている。

中でも、この日紹介されたビデオメッセージの中で「僕は今西さんがいなかったら、ほんとに普通のサッカー好きの、やんちゃなガキで終わっていた」と涙ながらに語った森保一監督という稀有な指揮官の存在と、その表情を大写しにする映像装置の両側に平和の翼を広げる、新サッカースタジアムと川の風景は、ともに人作りや地域貢献に主眼に置く今西イズムの”代表作”と言えるだろう。

会場ではJリーグ初代チェアマンで日本サッカー協会の川淵三郎相談役のビデオメッセージも流された。

 

また今西さんと東京教育大学(現筑波大学)の同期生で、日本テレビ入社後に全国高等学校サッカー選手権大会中継を国民的イベントに育て上げ、箱根駅伝の完全生中継も実現させた坂田信久さんが参列者を代表してあいさつした。その中では多くのエピソードが紹介された。

今西さんとの出会いは今から73年前。サッカー部に加えて体育心理学教室のゼミも一緒だった。

同期の部員は11人。そのうち9人は教師になった。坂田さんはテレビの世界からスポーツに携わる道を選び、今西さんは会社業務やマツダサッカー部の指導者として、またその後はサンフレッチェ広島の総監督、さらには吉備国際大学の教授として、育成の立場からやはり日本サッカーの発展、強化に寄与した。

今西さんがテレビ・新聞の取材を受ける際によくサイドネタとして口にしていたのが坂田さんだった。1969年に東京ヴェルディの前身、読売サッカークラブの立ち上げに関わった人物だ。続いて1971年には諸事情によって衰退が危惧されていた全国高等学校サッカー選手権大会の中継権獲得でも中心的役割を果たした。

昭和の時代の大阪万博開催は1970年(昭和45年)。高度成長期の真っただ中にあった日本において、スポーツ×メディアの価値は高まりつつあった。

ただ全国中継の普及発展には数多くの難題が待ち受けていた。当時、日本サッカーリーグの初年度から1968年まで4連覇を果たした東洋工業(のちのマツダ)で活躍し、日本代表入りも果たした今西さんは知られた存在だった。その知名度は局内外での坂田さんのビジネスにおいて貴重なアシストになった。

 

そんなふたりが久しぶりに出会ったのは去年10月。その後、母校の応援に出向き、宣揚歌「桐の葉」を熱唱!今西さんの目は心なしか潤んでいたという。

卒業と同時に別々の道を歩みながらも、サッカーを共通項としてそれぞれの分野で成果を上げ、またいっしょに学生時代に戻り旧交を温めることができた。「あれは神様からのご褒美だったのでは…」

今西さんはそれから半年後に帰らぬ人となった。すでに同期は6人が亡くなっている。

「また11人揃ったらキャプテンの君を中心に、サッカーを楽しみましょう」

大型映像装置の今西さんに呼びかけた坂田さんの結びの言葉は、平和の翼の間から見上げる広島の空へと広がって行った。(ひろスポ!広島スポーツ100年取材班)

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