広島スポーツ、日本スポーツ密着の携帯サイト「田辺一球広島魂」2019年3月20日掲載コラム「イチロー・スズキへのエール」より
ライトフィールダー、イチロースズキ。東京ドームに懐かしい場内アナウンスが響いた。
その生みの親である、仰木彬さんは2005年12月に亡くなった。その10年前に話は遡る。
1995年、阪神淡路大震災。グリーンスタジアム神戸に「イチロースズキ」のコールが響き夢の210安打達成となったのが1994年。その翌年の悲劇。そして、がんばろうKOBEを合言葉に、オリックスはリーグ優勝する。
当時は仰木監督、中西太ヘッドコーチ、そして新井宏昌打撃コーチ。この3人の下でイチローはバットを振り続けた。グリーンスタジアム神戸に近いところで寮生活しながら。それが彼の原点だ。
このころのオリックスは宮古島でキャンプを張っていた。潮風、波の音。砂浜にネットが張られ、新井コーチがトスを上げる。イチローが打つ。周りでも若い選手が同じように打っていた。野球に没頭できる時間だった。
グラウンドでのイチローはすでに怪物と化していた。例えばフリー打撃で打ち損じた打球が、ほぼ真上に舞い上がりなかなか落ちてこない。グリーンスタジアム神戸でたまに満振りを披露すると、その飛距離は他を圧倒。ひとりだけゴルフボールを打っているような有様で、この年にアスレチックスからやって来たニールの飛距離をさらに上回った。
それから20年以上が経過した。イチローは45歳になった。
一方、仰木監督の方はというと、2004年の球界再編で近鉄が消滅すると2005年、新生オリックス・バファローズの監督を引き受け、そしてその年の12月に帰らぬ人となった。
中西さんと西鉄時代を過ごした仰木さん。その生き方もまたプロ野球の歴史そのもの。イチローがマリナーズで262安打をかっ飛ばしたのが2004年。生前にその偉業を喜んだ恩師は、今回の日本凱旋を天国で見守っている。
幾多の経験を重ねたイチローを評することはおそらく誰もできない。大谷翔平の二刀流がそうであるように、同じような道を歩んだ者が誰もいないのだから当然だ。
東京ドームのベンチに深く腰掛けるイチローは、アドレナリンに支配され、呼吸することさえ意識することを必要としているように見えた。ライトのポジションでは目を充血させ、打席に立てばファウルで粘ったりもした。そのすべてがイチローだった。新井宏昌さんや中西太さんも、きっと20年前の記憶を蘇らせていたことだろう。
ただ、生命体である以上、永遠の命、は今のところありえない。
やはりイチローも歳を取る。どんなに節制した日常生活を送ろうと、どんなに鍛えようとそれは如何ともし難い。
イチローの頭上を打球が襲い、フェンスの遥か上で跳ね返った。こればかりはイチローでもどうしようもない。その前にイチローの前に詰まった打球が落ちた時、素手でそれを拾いに行った際、うまく手にボールが握れなかった。これが“老い”だ。
残酷なようだが、衰えはこうしたところに出る。意識と動きのズレ。視覚などの受容器と手足の動きなど運動器のズレ。
ゆえに、老いは空間を把握する能力も衰えさせる。頭上の打球を追いかけるその動きが20年前と大きく違っていることはイチロー本人が一番知っている。
それでもグラウンドに立つモチベーション。そこがスーパースターのスーパースターたる所以とも考えられる。
意外性、明るさ、スマートさ、表現力。イチローはそれらスーパースターの要素を兼ね備えている。スーパースターたるためのもうひとつの要素、それが可能性。
おそらくイチローに最後に残されたモチベーションはそれである。
日米双方の環境で逆境にも挑み続けてきたバットマン。そのバットを置く日はそう遠くないかもしれないが、「イチロースズキ」のコールにまつわる物語は永遠にファンによって語り継がれていくことになる。
(田辺一球)
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