J1チャンピオンのサンフレッチェ広島が12月23日、平和大通りで5万人の市民・県民・サポーターに見守られ、優勝パレードを行った。
サンフレッチェ広島イレブン、クラブ関係者はパレードに先立ち、平和記念公園を訪れ原爆慰霊碑に献花した。
原爆慰霊碑に頭をさげる左から森保監督、久保会長、織田社長
続いて青山主将、千葉選手会長が献花した
この平和記念公園もサンフレッチェ広島が2013年に続き2度目の優勝パレードを開催した平和大通りも1949年の広島平和記念都市建設法の制定によって整備された。
平和大通りは広島市中心部を東西に横断する約4kmの通りで市道で戦後20年目の1965年開通した。今年はちょうど全通から半世紀にあたる。1950年、廃墟の町に新球団カープ結成。その1年前のことだった。
原子爆弾で壊滅都市となった広島市の復興は困難を極め、国に対し広島市への特別な援助の請願が行われていた。多くの戦災都市のなかで広島市のみに特別な援助が国から与えられることが決まった。広島平和記念都市建設法はそれほど重い意味を持つ。
1946年10月、すでに広島市では「広島復興都市計画」が立案され「平和公園」「河岸緑地」とともに、目玉プランとしてあとで公募により「平和大通り」と名付けられる幅100メートルのブールバールも組み込まれていた。それは、市内における道路計画の基本軸となるものだった。
壊滅都市には当然、まともな仕事もない。平和公園、原爆資料館、平和大通りの建設には多くの被爆者や市民が雇われた。まったくの不条理により、人生の何たるかも分からないまま、絶望の淵から這い上がろうとする人々の手によって、やがて戦前には見たこともないようなランドスケープが広島のあちこちに誕生した。
1975年のカープ初優勝の際に平和大通りで優勝パレ―ドを行ったことは、こうした歴史を踏まえれば、大変意義深いものだった。と同時に、平和大通りの存在、を広島市民自身が再認識し、国内外へアピールすることにも繋がった。
その世界でひとつだけの特別な空間を、県警音楽隊を先頭にサンフレッチェ広島の優勝パレードがおよそ1キロの区間で約1時間をかけて進んでいった。
主催者側の発表で雨にもかかわらず詰めかけた人々、およそ5万人。(2012年は6万5000人)。沿道に溢れんばかりの人たちの後ろで、雨具を着た子供を抱いた男性がこう語りかけていた。
「ごらん、パレードが行くよ。紫のパレードが行くよ、4年で3度のJ1王者、広島の誇りと宝物、紫のパレードが行くよ」
優勝パレード開始を前に平和大通り界隈は混雑、サンフレッチェ広島の町になでしこリーグ、アンジュヴィオレ広島も…
来年のG8外相会議広島開催を控える広島県警は万全の警備体制をチェック
優勝パレードを待つ人々
県警音楽隊スタンバイ
待ちきれないサポーター
優勝パレードスタート
「雨の中ありがとうー!」「広島サイコ―!!!」
クリスマス前の平和大通りがよく似合う…
ひろスポ!に「バルサを倒せ」とエールを送ってきた飛翔会グループ、今田岳男チームドクターの姿も(右端)
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