1991年秋、最強・西武ライオンズとの日本シリーズで、前田は6戦すべてにフルイニング出場していたが、シリーズの通算打率は1割2分5厘に止まっていた。山本浩二監督と大下ヘッドは最初から腹を括っていたのだろう。レギュラーシーズンで打率2割7分1厘を残し、ゴールデングラブ賞にも選ばれた20歳の若武者を何があっても使い続けた。二人から前田への何にも代え難い愛情の表れだった。
重圧の中、試合に出続ける前田にとっても大きな試練になった。3勝3敗で迎える第7戦の試合前練習で見かけた前田の横顔はクールだった。
別の形の試練を与えられた若手もいた。ベンチ入りできなかった江藤はスタンドからシリーズを観戦した。前田と江藤は若い世代を育てる、というチーム方針にあって、特別な存在だった。
前田は左打ち、俊足好打の外野手、江藤は入団1年目は捕手でやがてサードに固定され、そのたぐいまれな長打力は右の和製大砲になる可能性を十分に秘めていた。
真夏の広島市民球場、土埃の舞う中で二人が黙々とバットを振り続けた日がいったい何度あったことか。時には裸足でスイングした。バテて倒れそうになると水谷実雄打撃コーチからホースで水を浴びせられた。二人に言わせると「あっという間のシーズン」だったという。その総仕上げがあたりの山々が色付き、底冷えのするこの西武球場だった。
第7戦は結局、1対7の完敗に終わった。先発佐々岡のあと、川口、北別府、川端らを投入したが強力打線を止めることはできず、ますます冷え込むグラウンドで熱く燃え上がった王者西武の胴上げを見届けた。
何物にも代えがたい貴重な8日間を過ごした前田は11月14日、広島市民球場内の事務所で江藤と揃って契約を更改した。金額は3倍増の1590万円だった。1年先輩の江藤の新年俸は70パーセント増の1020万円だった。
(つづく)