画像は比治山に設置された広島サミット記念碑越しに見る平和大通り沿いの風景、左が岸田文雄総理、右がジョー・バイデン 米国大統領(10月10日撮影)
2024年10月11日は広島にとって特別な日になった。
午後一番にはカープ球団が24のドラフト会議で、WBCなど国際大会での活躍も期待される三次市出身の宗山塁内野手(明治大学)を指名すると表明した。
この日午後7時30分からNHK広島放送局では、ドラフト1位指名選手などを占う<みんなのカープ県民大会議(広島県向け)>の生放送が予定されていた。12球団最速で1位候補を”名指し”する球団発表は、このオンエアに先んじたかっこうになった。
午後6時ごろには被爆80年目を1年後に控えた平和都市に、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会・事務局は東京都港区、代表委員は箕牧智之氏ら3氏)に2024年ノーベル平和賞が贈られる、という電撃的ニュースが届けられた。日本関連のノーベル平和賞は1974年の佐藤栄作元首相以来で2例目だ。
NHK広島放送局ではカープ特番のオンエア時間がられ急きょ繰り上げ、放送時間も短縮すされた。関係者によると、ノーベル賞発表のこの時期には、受賞候補としての被団協に配慮して毎年のように準備はしているのだという。広島のマスメディアはみなそうだ。しかし、実際に想定されていた話が現実になると、通常の準備だけではとても足りない。ここから在広マスメディアの力量が問われることになるだろう。広島から核廃絶と恒久平和に向けたリアルな声のトーンを各段に上げるまたとないチャンスだ。
広島では10月6日、広島県サッカー協会の「100周年記念事業イベント」があった。その名の通り、「平和の翼」を広げたエディオンピースウイング広島と市内のホテルを会場としてサッカーイベントや戦前戦後の広島サッカーの普及・発展に貢献した組織、関係者の表彰なども行われた。
イベントでは一日を通して何度も「サッカー王国広島」の耳慣れたフレーズが聞かれたし、日本サッカー界を代表して参加した宮本恒靖 日本サッカー協会会長は「第一次大戦で似島に連れて来られたドイツ軍捕虜が広島の関係者にサッカーを伝え、広島のサッカーそして日本サッカーがそこから強くなった」という広島サッカー原点を口にした。
およそ300名が参加して開催された懇親会会場では、飛び入りで岸田文雄前総理がステージに登場、来賓あいさつの中で、各国地域のトップと国際交流・協調を図る場においてサッカーネタ、特に代表チーム活躍ぶりが大事な”ツール”になる、と力説した。岸田氏は専任の外務大臣としての在職期間が歴代最長という肩書も持つ。
ひろスポ!広島スポーツ100年取材班(スポーツコミュニケーションズ・ウエスト)は、広島県サッカー協会から広島県、広島市、中国新聞社、マツダ、広島県歯科医師会など36団体とともに感謝表彰された。
この日の岸田氏や宮本会長の言葉を胸に刻み、翌7日に向かったのが警察車両などが囲んでいる岸田氏実家の所在地、治山だった。そこには、はだしのゲンの世界そのままの、米国が設置して今は日米共同運営の放射線影響研究所(1950年供用開始、2年後移転予定)がある。
そこからすぐのところに、曇り空の広島市内を見渡すことができる富士見台展望台があり、戦後復興の象徴のひとつ、平和大通りを見通すことだきる。そして南に目を向けると似島が浮かんで見える。
警察車両は今も常駐している
放射線影響研究所
広島サミットの記憶を刻むピースメッセージ広場の案内
比治山から臨む似島(中央)
ピースメッセージ広場から見る平和大通り(この画像のみ10月10日撮影、その他は7日撮影)
1945年8月6日の朝、もしも同じ場所から同じ風景を眺めていたとしたら…平和大通り界隈の町は殲滅され、比治山の東側の街だけは山の陰になり生き延びた。船で運ばれた無数の、死に向かうしかない被爆者は似島の軍施設内において壊死した手足を片っ端から切り離されたという。芸備線を使って県北にもたくさんの被爆者が移動、三次市内の学校施設などに収容された人々は満足な治療も受けられず帰らぬ人となった。
サッカーの島、似島に広島サッカーの種が撒かれた時代の各国軍備に「核戦力」は存在していなかった。当時はまだ、宇宙のエネルギーを地上で炸裂させるような、神の存在を越えてしまうような悪魔と人類は無縁なはずだった。
ところが人類は第二次世界大戦という同じ過ちを犯し、あろうことか日本も当時のアドルフ・ヒットラー総統のナチズムに倣い、自らその渦中に飛び込んで行った。
1945年4月30日、完全に敵軍に包囲されたヒトラーはベルリンの地下壕でピストル自殺した。だが、それで話は終わらない。ドイツ、イタリア、日本の枢軸国vs連合軍の武力衝突は、同時にユダヤ人物理学者の手による「原子爆弾」完成の時期を早めた。最後まで降伏しなかった日本でも原爆の開発は進められていた。そして自らがその”実験台”にされる、という極めて悲劇的な結末(第二次世界大戦終結)を迎えることとなった。
ヒットラーに似たような独裁者は今もこの地上に数多く存在し、特にロシアのウラジーミル・プーチン大統領は広島型より遥かに強力な核兵器使用をチラつかせながら、ウクライナから欧州地域への侵攻計画を着々と進めようとしている。
ひろスポ!取材班が比治山に上がった7日は、パレスチナ自治区でイスラム組織ハマスと、やはり核武装しているはずのイスラエル軍の戦闘が始まってからまる1年という日にもなった。原爆ドーム前では、ナチスの迫害によって絶滅されかけたユダヤ系の米国人や市民らの集まりがあり、ガザ犠牲者を追悼した。ロシアのウクライナ侵攻からはすでに2年半が経過している。
2023年5月、広島サミットにサプライズ参加したウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は平和公園を訪れたあと当時の岸田総理大臣と会談しメディアの取材には「ウクライナのバフムトで起きている破壊はかつての広島のようだ、資料館で見た写真の風景と似ている。バフムトも将来、必ず再建できると思った」と話した。
では広島サミットが世界平和の推進にどこまで関与したか?
ゼレンスキー大統領のロシアとの戦いはますます混迷の度を深め、イスラエルの宿敵であるイランも、日米韓が包囲網を敷く北朝鮮も、やはり神を超える悪魔の使い「核使用」に言及している。
ひろスポ!取材班は改めて秋空が広がる10日に比治山を訪れ、サミット開催を将来に語り次ぐために設置された記念碑を訪れてみた。
そこで平和を祈願した翌日に長崎と広島にノーベル平和賞が届けられた。ひろスポ!取材班の母校でもある広島市立基町高校2年の甲斐なつきさんは、この夏高校生平和大使としてスイス・ジュネーブの国連欧州本部などを訪れ核廃絶の強力な推進などを訴えた。この国の未来は彼女たちのようなこの先100年を生きる人材に託される。
広島サッカーも新たな100年に足を踏み入れ、長崎と広島を故郷に持つ日本代表 森保一監督は「広島に新スタジアムを!」の目標を達成したのに続いて、ワールドカップ優勝という新たな目標を見据える。同じ10日、現地であったW杯アジア最終予選ではサウジアラビアを2-0のスコアで蹴ちらした。森保ジャパンの勢いは増すばかりだ。
エディオンピースウイング広島のピッチに立つ森保一監督
近い将来、ひろスポ!は森保一監督とともに似島を訪れたい、とも考えている。
1919年(大正8年)1月26日、広島高等師範学校(現在の広島大学)のグラウンド(現在の広島市南区)で、ドイツ軍捕虜と広島合同チームが対戦した。広島高等師範学校、広島県立師範、高等師範付属中、県中(広島県立広島中学、大正11年から広島一中、現在の国泰寺高校)の生徒たちは1試合目0-5、2試合目0-6のスコアで圧倒された。広島サッカー100年の物語のその1ページ目には、にそう記してある。日本初のサッカー国際親善試合とも言われている。
広島はその後、軍都として飛躍的な成長を遂げ、被爆によって焼け野原となり、戦後復興を果たし今に至る。ところが今また「新たな戦前」に向かっているという声が聞かれる…そんな流れに抗うため、ノーベル平和賞モニュメントもまた平和記念公園内や比治山に設置されるだろう。エディオンピースウイング広島の平和の翼の下にロシア、ウクライナ代表を招き、親善マッチが開催されるまでに、あとどれぐらい時間が必要なのだろうか…(ひろスポ!広島スポーツ100年取材班&田辺一球)
※この記事は福山平成大学「広島スポーツ学」講義とリンクしています。
ひろスポ!関連記事
エディオンピースウイング広島での代表戦開催の意義をメディアで発信、森保一監督の平和とサッカーへの思いを受け平和記念公園にもSAMURAI BLUE | 【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア (hirospo.com)(2024年6月11日掲載)
さあ行こうぜ、どこまでも…目指せW杯その頂きへSAMURAI BLUEのエディオンピースウイング広島で森保一監督がみんなに伝えたかったこと~川風の街、七色の光#65 | 【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア (hirospo.com)
(2024年6月11日掲載)
東京五輪金字塔目指す森保一監督のU-22国際親善試合はキリンカップとして開催、「HiFA 平和祈念 2019」4大大会とともに広島・長崎の声を世界に発信 | 【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア (hirospo.com)
(2019年7月19日掲載)
東京五輪で金字塔を…と同時に森保監督率いる五輪代表は長崎・広島のピッチに立ち世界発信を! | 【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア (hirospo.com)
(2017年10月14日掲載)