ベルリンの壁イーストサイドギャラリー(ひろスポ!ドイツ取材班撮影、以下同)、壁が崩壊して今があり、未来がある、広島と長崎は廃墟となり、今があり、そして東京とこの国の未来は…(トップ画像説明)
ひろスポ!では9月24日に以下の記事をアップした。
サンフレッチェ広島から東京五輪へ、森保代表監督誕生秒読み、現在はドイツで研修中
hirospo.com/pickup/40901.html
できれば、ひろスポ!取材班も森保氏を追いかけたかった。が、予算も人材もないに等しい…
森保一氏の五輪監督就任決定は10月12日。中国新聞は森保氏に「電話インタビュー」して13日け紙面で森保氏の声を紹介した。
他のメディアもさすがに”ひとり旅”の森保氏を追いかけることは無理…かと思っていたら日刊スポーツが現地の取材者ではなく記者を送り込んで森保氏に直接、取材。…なので詳しくその様子が報じられた。
この”厳しいご時世”に日刊さん、あっぱれ!というほかない。
日刊スポーツの10月13日組の記事はドルトムント発だった。その記事によれば、森保氏は浅野拓磨のシュツットガルトを皮切りにドイツ南部から北上してケルン、デュッセルドルフと回り、さらにイングランド、オランダ、またドイツに戻りドルトムントを訪れている、という。
都合のいいこんなインサート画像が…、ひろスポ!にはある
ところで記事の中の森保氏の言葉の中に、外から日本を見つめることで日本人の誇りが強くなる、ということがあった、と記されている。
日刊の記者さんは素晴らしい言葉を森保氏から引き出した。それイコール、東京五輪の大舞台での誇り高き戦いを意味する。
森保氏はこのあと、帰国して会見に臨むとあるが、それがいつになるのか、はまだ日本サッカー協会からは発表されていない。
森保放浪記はいつまで続くのか?。
ここからはひろスポ!の勝手な”ストーリー”であるが、森保氏は欧州に数週間、滞在したことで「平和」についてもまた認識を新たにしたに違いない。
サンフレッチェ広島を率いてJ1王者に3度なり、さらにはクラブW杯で3位に輝き、そのたびにサッカーができることへの喜びと感謝、サッカーに関わるすべての人々の笑顔の素晴らしさ、笑顔に通じる平和の尊さを口にしてきた。
平和記念公園の原爆慰霊碑に手を合わせ、大規模土砂災害で命まで失うような大変な目に遭った家族のもとを訪ね、そして原爆ドームに隣接する旧広島市民球場跡地への新サッカースタジアム建設を声だかに訴えてきた。
ひろスポ!が同行取材していたなら森保氏にベルリンに行ってみませんか?と提案する。
ベルリンでは2016年12月19日午後8時(日本時間20日午前4時)ごろ、トラックがクリスマスマーケットに突っ込み、12人が死亡、48人が負傷するテロも発生した、画像は現場に捧げられた祈りの品々
そこには第2次大戦中、ナチス政権によって正確にカウントすることなどとてもできないおびただしい数の死と破壊を未来に留める数々のモニュメントやプラッツ(場所・広場)が存在する。
ベルリン・ユダヤ博物館、ホロコースト記念博物館、イーストサイドギャラリー、ベルリナーマウアー(ベルリンの壁)…
ベルリナ―マウアー地区
ベルリン・ユダヤ博物館前
ベルリン・ユダヤ博物館展示
壁にベルリナ-マウアーと書いてある、ここからギャラリー(落書き壁)が始まる
シュプレー川に架かるオーバーバウム橋も使い、クロイツベルク地区(この地図の川より下、西ベルリン)とフリードリヒスハイン(川より上、イーストサイドギャラリーもある東ベルリン)をベルリンの壁で分断していた
再びベルリンのマチナカへ
サービスカット、ユニクロ発生の地は広島…
ベルリンっ子ファッション(画像に長体はかけていない…)
さらにベルリンから電車で30分足らずのポツダムにも案内させていただくだろう。そうそう、広島市は”速攻”でポツダム市と姉妹都市提携した方がよくないか。しなくていい理由は何もないと思うのだが…。
広島の街中に良く似ている…
こっちは「宮島線」のように見えなくもない…
この街にはヒロシマ・ナガサキプラッツ(記念地)がある。2010年7月25日に広島の関係者らの手により、このモニュメントは設置された。
ヒロシマ・ナガサキプラッツ
ヒロシマ・ナガサキプラッツ
日本人石彫家藤原信(www.makotofujiwara.de)さんを中心にして作成された。記念地は2つの石で構成されている。 大きな石(閃長石) が藤原さん作品 。画像手前は献花台も兼ねる基板石(閃長石)記念碑 。基板石には広島と長崎で被爆した被爆石が埋め込まれている。広島の被爆石は広島電鉄路面電車の敷石。なお「広島と長崎の被爆石からは現在、規定以上の放射線量は放出されておらず、危険はありません」とドイツ語で記されている。記念地のデザインと設置工事には、広島市立大とハノーバー専門大の交換留学生としてドイツで勉強し、現在ドイツで活躍する広島、長崎出身のアーティスト、広島市立大で勉強したドイツ人彫刻家らが協力した。
ところでこのポツダムの街の名から取ったポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域となったポツダムに、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた。
顔を揃えたのは、アメリカ・トルーマン大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン書記長と数名の重役たち。
当然、厳しい話し合いになるため会談の”場所決め”には細心の注意が払われた。その結果、ホーエンツォレルン家最後の王子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンが家族と住んでいた宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿が選ばれた。
ツェツィーリエンホーフ宮殿
建物はそのまま現存する。建物と庭園は1990年にユネスコ世界遺産に登録され「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」のひとつになっている。
内部もそのまま保存されているから、当時の会話の様子まで想像できる。
逆に「想像力」ゼロだったのが、まさにポツダム会談が開かれていた時の日本だ。
1945年7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明された。
8月6日の午前8時15分まで、まだ悠に10日以上あった。
ツェツィーリエンホーフ宮殿内には、ポツダム会談に関する展示も多い。その順路の最後の壁には何があるか?
そこには…
THE FINAL ACT
END OF THE PACIFIC WAR
…のタイトルとともにこれ、である。
長崎に育ち、高校卒業後は広島でサッカーとともに成長し、そして家族を持ち、たくさんの人たちと過ごしてきた森保氏が、ぜひ長崎、広島で五輪代表戦を…と日本サッカー協会に持ちかけたらどうなるか?
「そりゃ、問題ないでしょう」と証言する関係者からの話はすでに確認した。
前回、1964年の東京五輪は日本が戦後復興の礎を築き、高度成長真っ只中。今の人たちにはピンとこないかも?だが、東京の街はオリンピックを控え…とユーミンも歌っていた。
半世紀が過ぎ、今度はTokyo2020で我々は未来のために何を遺せるのか?
五輪代表、森保監督はそのカギを握る人物でもあり、今回の放浪記の最後のページにはそんな言葉が記されているに違いない。
ひろスポ!森保ジャパン取材班
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