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2016年07月13日
編集部編集部

「球児や市民が平和を嗅ぎ取れるマツダスタジアムで、高校野球やアマチュア野球が元通りできる環境を」高校野球100年、迫田穆成氏が語る戦後70年目の広島の夏(後編)

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迫田監督
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※このインタビューは2015年7月に収録しました。

 

私たちは遺族ですから、弟も原爆の次の日に亡くなりましたので、あんまりそういうことが話題になってどうだ、こうだ、というのは言いたくありません。仏壇に手を合わせてきちんとお祈りするぐらいです。

…確かにあんまりないのですけど、でもそういうものは例えば今のマツダスタジアムのどこかにあってもいいのではないか、と思います。

先ほど私らは広島市民球場に愛着がる、と言いましたが今の子たちにはマツダスタジアムです。今年も広島大会の開会式がマツダスタジアムで行われておったのですが、何かそこに広島の人が分かるようなものがあった方がええと思うんですね。

以前は原爆ドームのそばにあって、その市民球場が広島駅近くに移ってきた、というそのことをしっかりと伝えていく必要があるのではないでしょうか?戦争のこと、被爆のことをいろいろな形でみなさんが言うてきておるわけですが、言葉にすることも必要ですし、ささやかであまり目立たないけれど目にすることでパっと伝わるようなものがある方が遺族にとっても受け入れやすい、という気もするんです。

広島をもっと県外の方や世界中の皆さんに知ってもらうためにも、原爆ドームの隣にかつての市民球場があったことを伝える何かをマツダスタジアムへ置いてもらって、それで球児もそのことを忘れずにやっていこう、という方がええと思いますね。

そうでなければ、もう子どもたちは原爆ということとの関係がどんどん希薄になっていく一方です。

そしてやっぱりもっとマツダスタジアムで高校野球、アマチュア野球、少年野球も開催できる環境を早く取り戻してもらわんといけませんね。ずいぶん立派にもなりましたが、やはり使えん、というのはしんどいですね。

高校も大学も社会人もけっきょくみんな”高いから使えん”と言うんですね。今年も高校野球でマツダスタジアムを使ったのは開会式とそのあとの1試合だけです。

いろいろな意見があることは承知しておりますがやはり全体的な思いとしてはマツダスタジアムで高校野球を行うということですし、それでこそ市民球場という気がしますね。

一度しかないんですから、高校野球で汗を流す時期は。それで例え甲子園に行けなくてもマツダスタジアムで試合ができたならそれは全然違います。今年の開幕戦もそうでしたがたくさんの人が見にこられる訳ですから。それは県内の他の球場ではまず無理でしょう。マツダスタジアムだからお客さんがたくさん入るんですよね。

今の子たちはいい球場に行くと緊張もせず、喜んでやりますからね。テレビの方が取材に来られてもみなうまく振る舞います。そういう子たちにはマツダスタジアムがよく似合います。

そこらのことをどうするか?何かいい方法はないのか?高校野球も100年、戦後70年の節目の年でもありますし、そういうことをいろいろ考えておるところなんですよ。

迫田監督

迫田穆成(さこた・よしあき)
1939年7月4日生まれ。広島市己斐(現西区己斐)の自宅で6歳の時に被爆。姉と父親は爆心地近くで被爆し、弟(守昭、現新庄高校野球部監督)の産み月だった母親は出産が9月になった。

翌年、己斐小学校1年生時に学校のグラウンドで野球と出会う。中学時代には「日独青年交換会」の国内メンバー8人に選抜され、1カ月間西ドイツに短期留学。

1955年、前年に再編されたばかりの広島県広島商業高等学校に進学。2年時には主に「八番レフト」で春夏連続の甲子園出場。翌1957年の第39回選手権大会では、主将としてチームをまとめ「広商4度目の夏制覇」を成し遂げる。

卒業後は家業の洋服店後継者として働く傍ら、社会人野球、高校野球の審判などを務める。野球との関わりが続く中、1966年に広商からの要請を受けコーチに就任、翌1967年秋、監督就任。1969年、第41回センバツでは早々と甲子園ベスト8。

さらに1973年、第45回センバツでは、佃正樹、達川光男のバッテリー、金光興二、川本幸生、楠原基らを擁し、「怪物、江川卓」を攻略して準優勝。金属バットの使用が最後となった同年夏の甲子園決勝、静岡高校戦では九回一死満塁からスリーバントスクイズを決めて「広商5度目の夏制覇」を成し遂げた。

翌1974年夏も甲子園へ。しかし準決勝で習志野高校エースの小川淳司(現東京ヤクルトスワローズ監督)を攻略しきれず敗退。その責任をとる形で監督を辞任した。

その後は、他県の高校のコーチ等を務めたあと、1993年、如水館高校の開校を控え、前進である三原工業高校野球部の監督に就任。1997年夏、春夏通じて同校初となる甲子園出場を果たす。以来、夏6度、春も1度甲子園へ。2011年の第93回選手権では初戦から3試合連続延長戦勝ちを収めて、甲子園ベスト8進出。

実弟の迫田守昭も広商監督などを経て2007年秋より新庄高校監督。2014年春、同校を県北勢初の甲子園へと導き今夏の広島大会では如水館を準決勝で破り同校初の甲子園夏切符を手にした。

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