画像は稲田果穂マネージャーのそばで山村心部長と竹原ナインを見守る迫田穆成さん、中央は迫田穆成さんと同じ広島商出身の平田大介監督
第107回全国高校野球選手権記念広島大会は7月19日、県内4球場で4回戦8試合を行い、ベスト8が決まります。
ぶんちゃんしまなみ球場では午後0時30分から竹原-広陵が予定されています。
備後の空から、もしかしたら一番熱い視線をそのグラウンドに送るはず、それが迫田穆成さんです。
「如水館をクビになりそうなんですよ」
2018年秋、迫田穆成さんからそんな相談を受けました。翌2019年3月、如水館ナインに「広島大会、甲子園で勝てよ、そうしたらお前らの感謝を受け取ってやる」との言葉を残し、一度は高校野球界に別れを告げた迫田穆成さん。でもそのあとしばらくして竹原市内のマックで会いましょう」と誘われ、出会ってみると元気が漲っていました。
2019年6月半ば、迫田穆成さんは竹原高校のグラウンドに初めて立ちました。
そして、11名しかいない部員の前でこう切り出しました。
「無死一塁で打球が三遊間へ飛んで、ゲッツーコース…。サードからセカンドへ投げたらセーフになった。どちらが悪い?」
ひとりだけ「サード」と答え「セカンドカバーが遅れた」が多数派でした。でも、正解は「悪いのはサード」…
「野球は思いやりのスポーツ、ボールを持っている側に主導権があるということをまずはよく理解してからプレーして欲しい」「そして大事なことは一生懸命に動くこと」
さらに、こうつけ加えました。
「あすからは自分たちで考えるようにして欲しい」
その1カ月後に迫田穆成さんは80歳になりました。そして目標は「4、5年で県ベスト4」に据えたのです。ベスト8では甲子園は見えない。ベスト4なら最後は見えない力が大舞台に誘ってくれる。広島商、如水館を率いて14度の甲子園。頭の中のマニュアルに沿ってチーム作りがゼロから始まりました。
最初は「お前ら、監督の話もそんな態度で聞くのか!」と集中力を欠く選手たちが真夏の竹高グラウンドで怒鳴られるようなチームでした。
2020年夏、迫田穆成さんはその年の2月から始めたLINEを使って選手とマネージャーにこう伝えました。
<夏の大会中止。今一番考えないといけないことは(中略)次の目標を自分で見つけて、迷うことなく野球人生を楽しく…>
すぐに3年生6名から返信がありました。

返信には迫田穆成さんへの感謝の言葉が…
この年の代替大会では初戦で観音と対戦、0対8コールド負けでした。
2021年夏、初戦で同じ観音と互角に渡り合い5対6で惜敗しました。
2022年夏は初戦で千代田にコールド勝ち。1年生をスタメンの半分以上で起用しながら最後は崇徳に2対5で敗れたものの35年ぶりのベスト16進出を果たしました。
迫田穆成さんは「次に対戦するかもしれんので、広島商を見て準備しよったんですが…」とこっそり?教えてくれました。
2023年は2回戦で春夏8度甲子園に導いた古巣の如水館に1対8で敗れました。そのあと迫田穆成さんはまた言いました。「今の1年生が3年生になったら、ベスト4が見えてくる」と…
その年の10月末にあった広島南部地区高校野球1年生大会トーナメント(参加21校)で竹原は優勝しました。
「今大会は呉港さん、市立呉さんが参加されておられないので、優勝と言っても…、ただ4試合で失点は1、1、0、2ですからそこは選手がよくやってくれたと思います」
迫田穆成さんはそこでまたこう言いました。「上級生が下級生を教えて強くなれるチーム」こそが甲子園への道であり「1年時から野球への向き合い方、取り組み方」を大切にした指導が大事なのだ、と…
それから2カ月後の12月4日、84歳で監督の肩書のまま亡くなった迫田穆成さんの葬儀・告別式が竹原市の長善寺で営まれました。
一夜明けて5日、竹高のグラウンドには夏の広島大会を共に戦った選手たちの姿がありました。バックネット裏の監督室には、保護者の手で花が供えられ、これまでと同じようにコーヒーカップなども用意されていました。どんなに遠くからでも、選手が何を考え、どんな気持ちでプレーしているかは瞬時に洞察できる。それが迫田野球…

監督室から見るいつもと変わらない風景
……
2024年夏、竹原は3試合連続のコールド勝ちで4回戦に進み、迫田穆成さんの仏前にはウイニングボール3つ。そのあと海田に敗れてベスト8の壁にまた跳ね返されました。
そして、いよいよ“最後の4カ月”を迫田穆成さん指導の下で過ごした1年生が3年生になり、夏の大会3連覇を目指す広陵と対戦する日がやって来たのです。
戦後80年、被爆80年の特別な夏に…
「原爆が投下された時、私は6歳でした。弟がいたのですが原爆で亡くしました。2才でした。ちょうど病気で己斐の家で寝ておったんです。私もその時にはまだ幼稚園ですから家におりましたが、すぐに親戚のおばちゃんが来てふとんをかぶって、すぐ下の弟と山に逃げました。それから夜になって、佐伯郡の方からおじさんが二人来て、自転車に乗せられて廿日市の奥の下河内というところへ向かいました」
「私が高校3年の時に広島市民球場も完成しました。その時、一緒にプレーした仲間には一番を打っておったんですがケロイドをやっている者もいました。私の周りで言えば小学4年の時と中学2年の時に同級生が原爆症で亡くなっています。葬儀に行くと<お前らもそこらが出るかもしれないから注意しなさい>と言われ、そんなこと言われても…、わしらも原爆症で死ぬるんかなと…」
そんな被爆当時の生々しい記憶も、いつのも親しみのある話し方で伝え聞いてきました。
そのたびに迫田穆成さんはこうも言っていました。
「私は野球がなければ私は生きておられない」
今夏の竹原はコールド発進のあと3回戦で可部に一時逆転されました。でも「僕たちのやってきたことを信じてたので、焦ることはありませんでした」(石本彬主将)と終盤の3イニングで11点を奪い勝ち上がってきました。

広陵打線に挑む竹原のエース日浦孝太郎
広島大会パンフレットの<竹原>ページには「先生にも相談しながら書きました」という稲田果穂マネージャーのチーム紹介が載っています。
<1年時に指導してくださった迫田穆成元監督さんから教わったこと、最後の教え子であることを胸に秘めて、1勝でも多くの勝利が報告できるように、最後の夏が悔いなく終われることを信じています>
幾多の試練と、例えば「怪物江川攻略」のような栄光の時を繰り返し、もう100有余年。野球王国・広島の歩みはこの先もずっと続くはずです。大正・昭和・平成・令和の時代を最強であり続けた王者・広陵に挑む迫田穆成さんと竹原ナインの戦いはどんな1ページを刻むでしょうか?(ひろスポ!広島スポーツ100年取材班&田辺一球)
※「川風の街、七色の光」は、戦前戦後を通じて広島の人々の生活に深く関わってきたスポーツのある風景を、この街の未来に繋げていくために”そのまま切り取って”残しておく、ひろスポ!連載コーナーです。(田辺一球)
※このコラムは広島県内での大学などの授業・講義教材として制作されています。
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2025年07月17日











