11月26日、ホーム最終戦のエディオンスタジアム広島でJ1残留を決めたヨンソン監督はサポーターにお辞儀して気持ちを示した(トップ画像)
12月4日、サンフレッチェ広島からヨンソン監督の退任が発表された。
本人のコメントも出された。そこには…
「J1残留を使命として戦ってきましたが、それが達成できたことをうれしく思っています。短い時間でしたが、サンフレッチェ広島で監督を務めることができたこと、そしてチームも個人も成長する姿を見届けられたことには、喜びを感じるとともに、また満足もしています」
…とある。また、
「私は、本日行われるクラブのスポンサーイベントと、明日のJリーグアウォーズに出席します。その後は、当初から私自身、家族に約束していたとおり、家族のもとへ帰り、日本で経験したことすべてを振り返りたいと思います。私自身の今後についてはそれから決断していきたいと思います」とも述べている。
残念な形になったが、この”結末”はある程度、予想できた。エディオンスタジアム広島で残留を決めた11月26日、みんなで収まった一枚の写真。だが、選手たちとヨンソン監督の間に少し距離が感じられた。
J1残留を決めた”みんな”で一枚の写真に収まる、右端にヨンソン監督
でも、みんなにとっては何よりも大切な、かけがえのない1枚だ。ヨンソン監督、ありがとう!
そのあとヨンソン監督はイレブンの最後尾をひとりで歩き、スタンドに笑顔を見せた。サポーターから感謝の声が返ってきた。
だが、もうヨンソン監督がサンフレッチェ広島の指揮官としてこのピッチに立つことはない。当分ないのか、2度とないのかはもちろんわからないが…
この日、少し前のスタンドにはこんな横断幕が出た。
ちょうど織田秀和代表取締役社長があいさつするタイミングで、だ
それから6日後の12月2日、今季最終戦のあった遠征先の日立柏サッカー場で織田社長の退任が明らかになった。
この時、織田社長は「久保会長と3年を目安として話をしていました。任期満了です。(今季のチーム状況との関係について)今季がまったく関係ないということはないけれども…」と話した。
織田社長はクラブ生え抜きだ。マツダ時代からプロ化への移行期も含めて、ずっと広島サッカーに携わってきた。
サンフレッチェ広島生みの親である今西和男氏(初代サンフレッチェ広島GM)の下でチームの強化策についても学び、2001年に強化部長となった。
2002年と2007年、2度のJ2降格を経て、チームには様々な変革期が訪れた。そして2011年オフ、ペトロヴィッチ監督から森保監督にバトンが渡された。
2012年、いきなりJ1の頂点に上り詰めた時はまだ織田社長が強化部長の時だった。「一番の想い出は強化部長として初優勝した2014年」と織田社長は2日にコメントしている。
2015年2月、小谷野薫社長が広島市長選に出馬したのに伴ってその後任として織田社長がクラブのトップに立った。3年目のラストシーズンでは森保監督解任という厳しい決断も下した。
その後のヨンソン監督就任は織田社長、そして足立修強化部長の”勝負手”だった。緊急手術、荒療治…。とにかくチームをJ1に踏み止まらせるために全精力を継ぎ込んだ。
終わってみればチームは8勝9分け17敗、勝ち点33の15位。
J2降格圏、16位のヴァンフォーレ甲府は7勝11分け16敗、勝ち点32とその差は「1」。さらに両者の得失点差も「1」で、そのわずかな差が天国と地獄の分かれ目になった。
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織田社長、足立強化部長のコンビで2015年、クラブは3度目のJ1制覇を成し遂げた。だが、この頃からすでに歯車が狂い始めてもいたとも考えられる。
翌2016年はリーグ戦通年で6位、そして今季は開幕から迷路にはまり込んだ。
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ここまでの話は過去のことで、ヨンソン監督の退任が発表されたきょう12月4日ですべてはリセットされる。
クラブ側の発表では12月下旬に行う取締役会で新社長が選任される予定となっている。ということは新監督の発表はそのあとになる。
内部昇格だった織田社長の後任もそうなのか、あるいは新たな人材をクラブ外に求めるのか?それと同時にチームの強化体制をどう引き締めるのか?
久保允誉会長の手腕によるところが大きいとは思うが、その久保会長がサンフレッチェ広島の代表取締役社長に就任したのは1998年6月だった。来年6月で20年になる。ここまでくればもうサンフレッチェ広島=久保会長…
サッカースタジアム問題でも自ら前面に出て声を上げてきた久保会長だが、昨今の県や市、広島商工会議所との”意見交換”なども含めて、ピッチ内外の”闘い”が一筋縄ではいかない、となると今回はどんな方針を打ち出すことになるのか?
サンフレッチェ広島のここまでの足跡に思いを巡らせると、けっきょく話はサンフレッチェ広島を支えてきたこれまでのすべての人たちの思いと、サンフレッチェ広島の存在意義に行きつく。
もうすぐ終わる2017年はサンフレッチェ広島のクラブ創設25周年。四半世紀の歴史は、あっと言う間だったようにさえ思える。
また次の25年があり、クラブは50年先、100年先の広島にもあり続ける。
ひと区切りの年の終わり、サンフレッチェ広島の新たな”100年構想”は、紫の、バラ色の未来に繋がるか…
サンフレッチェ広島取材班