画像はマツダスタジアムに移設されず、今なお旧広島市民球場跡地に残る勝鯉の森
「耐えて勝つ」、「赤ヘル軍団」、「初優勝」、「江夏の21球」「日本一」、「カープ黄金期」…
広島元監督の古葉竹識さんが、11月12日に心不全で亡くなっていたことが16日、分かった。長男の千雄さんが球団を通じて発表した。85歳だった。
今季はセ・パとも2年連続最下位だったヤクルトとオリックスが優勝したが1975年の広島初のリーグ優勝は3年連続最下位からの快挙だった。
「赤ヘル」を採用したジョー・ルーツ監督(2008年逝去)が開幕から15試合で辞任したあとを受け、“青年監督”としてチームを初優勝に導いた。広島の街中がその美酒に酔った。戦後30年目で街の歴史すら大きく変えたことになる。
広島では4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成してその後、1987年から3年間、大洋の監督も務めた。
数々の功績をたたえられて1999年には野球殿堂入りを果たした。また2008年春から東京国際大野球部で指揮を執り、2016年から同大の名誉監督も務めた。
広島在籍当時も、大洋へ新たな活躍の場を求めた時も広島球団との間でいろいろなことがあったのは確かだ。だが、そうはいっても広島の街の歴史すら変えたその偉業は絶対的なものであり、広島球団もまさにその中心にあった。
…が、11月16日午後9時現在、広島東洋カープのHPには、このたびの訃報に関する情報は一切掲載されていない。テレビやネットニュースには1975年初優勝メンバーの山本浩二さん、外木場義郎さん、大下剛史さんほかがコメントを寄せている“だけ#だ。
古葉監督の下、1975年にコーチ兼任で初優勝に貢献した山本一義さんが逝去した2016年9月もそうだった。
この時は、クライマックッスシリーズを控えるチームのことを考えた故人の強い要望で、全日程終了後の10月の発表となった。それ以前に球団に電話で確認しても「わかりかねます」のひと言だった。
2018年6月、衣笠祥雄さん逝去にともなう「お別れの会」も広島市中区のリーガロイヤルホテル広島で行われ、マツダスタジアムで追悼試合はあったが、献花台を設けるなど特別なことは行っていない。
広島市民、カープファンにとって大いに違和感の残る状況が繰り返される。いったい何がどうなれば、こういう対応になるのだろうか?
ひろスポ!には次のような声が複数、カープファンから届いている。
「赤ヘルの石杖を築いたのは間違いなく古葉さん。僕ら世代以上(50代)はみんなそう思ってると思う。どんな偉大なOBの訃報もスルーしてしまう球団は、古葉さんの訃報までも平気でスルーしてしまうのか?ホームページにも全く載ってない。ホントに悲しい。どういう経緯があれ、球団葬やお別れの会くらいやるのは普通ってか、それが人の道。情けない」
(ひろスタ特命取材班)