今年2月の宮崎・日南キャンプ合流の日、カープナインを前に「優勝」の2文字を初めて口にした黒田博樹
365日カープの動きに密着、2004年より、一日も休まずカープナインの動きを記録してコラムや試合速報、ニュース速報で伝える携帯サイト(公式)「田辺一球広島魂」より7月23日「赤の魂」コラム一部抜粋
ホームベースを挟んで黒田と新井貴浩に今、揃ってスポットライトが当たった。二人で高々と掲げる日米200勝達成のレリーフに3万2000人を超えた超満員のスタンドが酔いしれた。
この構図はそのまま、やがて収穫の秋を迎えるチームの最終ゴールでのワンシーンに重なっている。二人が同時に広島を去り、同時に戻ってきて、同じシーズンに2000本安打と200勝達成。このストーリーの結末はきっとハッピーエンドにしかならないようにできているのだろう。
重要な発言がある。
松田オーナーの言葉だ。
「新井とともにチームを変えて活性化してくれた。試合を作るというプライオリティーが高い。言葉では知っていたが、クオリティスタートの大切さを体感させてもらった」
そして黒田は言う。
「まだ体が元気というか、投げられる状態なので、そういう意味ではそれなりの責任だと思います。少々のことではローテ―ションを飛ばしたくないですし、特にアメリカに行って、半年で自分の置かれている立場が変わってくるというのは周りを見てすごく感じてきた。できる限りマウンドに立ちたいという気持ちは、年齢がいけばいくほど強くなってきました」
「新井がすごく元気で、チームを引っ張ってくれているので、チームの状態もすごくいいです。彼がいなかったら現時点で、この状態でいられるのかなと思いますけど…」
剛腕の証明。
この、ひとりの右腕の挑戦は次々にその舞台を変えながら20年の歳月を経てきょう、その瞬間に至ったことになる。
時には万年Bクラスのチームのエースとして、時にはオリンピック銅メダル獲得へのマウンドで、カリフォルニアの乾いた風のグラウンドで、巨大都市ニューヨークの摩天楼を見上げながら、そして再び赤い風景に身を委ねて…。
黒田の特性のひとつに仲間とは群れない、という生き方がある。現役生活20年。でも「黒田派」などは存在しない。
そんな黒田が新井貴浩と出会ったのは入団3年目。その年の黒田の成績は21試合で5勝8敗、防御率は6・78。前年の防御率6・60からさらに悪くなっていた。
新人だった新井貴浩も53試合で21安打を放ったものの三振が31個!打率2割2分1厘と低調で、ただ21本のうち3本に1本がホームランという非凡な長打力だけは示すことができていた。
カープのエースに成長した黒田が「もはやエースではない」と地元中国新聞に「見出し」をとられたのが黒田の8年目、2004年のことだった。赤ゴジラ嶋が突如として現れた年で、近鉄球団消滅の日本球界にとって衝撃のシーズンだった。
前年に13勝を挙げて推定年俸は1億円を突破した黒田はこの年、連続KOを喰らい、時にはホームラン3発を浴びて、マウンド上で膝に手をついたまま動かなかった。そんな姿に「仏の顔も三度まで」「黒田は並以下の投手になっている」と新聞報道は手厳しかった。
こうして迎えた2004年8月3日、広島市民球場での阪神戦。長嶋ジャパン、アテネ五輪代表に招集され、チームを離れる前のラスト登板となった黒田は、怪我のため右手1本で打席に立ち続ける金本に痛打され、そこから逆転負け。ベンチで顔にタオルを当てて涙を流すシーンはそのままテレビ画面にも映し出された。
中略
記念セレモニーで黒田が述べたことは、改めてこのチームの、この広島のカープとともに暮らす人々の価値観と喜びを表していて、その思いはこの先も次の世代へと引き継がれていく。
「きょう、最高のチームメートと最高のファンの前で、最高の広島、マツダスタジアムで節目の勝利をあげられて自分自身、感動しています。ほんとうにありがとうございました」
携帯サイト「田辺一球広島魂」
スマホ版ikkyuu-t.com
通常携帯版 www.ikkyuu-t.info/i