旧広島市民球場跡地、工事現場の向こうに衣笠さんの石碑が確認できる
きょう6月13日は「鉄人の日」だ。
1987年(昭和62年)のこの日、広島東洋カープの衣笠祥雄選手が、2131試合連続出場の世界記録を達成した。
「鉄人」の呼び名はカープ初優勝前年の1974年(昭和49年)までの背番号「28」だったから。横山光輝さんの漫画「鉄人28号」に由来する。
今の時代のカープファンには「鉄人28号」もピンと来ないだろう。
ひろスポ!ではそんなこともお構いなしに以下のような記事もアップしている。
進撃の巨人vs達人28号、リモコンパームの床田に軍配もマツダスタジアムでの連勝4で止まる | 【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア (hirospo.com)
上記記事にもある床田は交流戦3試合に投げて2勝1敗、防御率1・64。広島は交流戦わずか5勝に終わったが「達人」の奮投がなければさらに悲惨なことになっていた。
広島が交流戦でいつも苦戦するのは現場のせいだけではない。監督も選手も世代交代しているのに17シーズンで6度の最下位はあまりにも極端。「傾向と対策」を怠り、スコアラーの配置などで適切な対応をしていない球団強化担当者の責任は重大だ。…というか今の広島は誰がどう強化を担当しているのかよく分からない。その証拠にメディアにそれを専門に語る人物がいない。
例えば今季は2月のキャンプ時から「公立高校の教頭から球団職員に転身した男性」が「数学教師としての知識を生かし、選手のデータを分析する仕事を担う」と大代的に紹介されてたが、交流戦でどんな貢献をしたのか?肝心な時に何も報じられていないが…
さて、本家本元の「鉄人」の方は1987年6月13日、満員の広島市民球場(すでに解体、一部ライトスタンド残存)でファンとともにメモリアルデーを球団史に刻み、この日、中日・小松辰雄から左翼席へ自ら祝砲も打ち込んだ。
6月22日に王貞治に次いでプロ野球選手でが二人目の国民栄誉賞を授与された。
そして9月21日、「自分の衰えを感じたのは飛んできた打球に反応できなくなったから」と現役引退を表明した。最終出場試合は10月22日の大洋戦で連続試合出場黒くは2215試合まで伸びた。
その功績を讃えて1975年から衣笠のつけていた背番号「3」は広島の永久欠番となっている。
NHK BS1では6月11日のドキュメンタリー番組「レジェンドの目撃者」で「鉄人」にスポットを当てていた。(再放送は6月16日午後9時ほか)。
なぜ試合に出続けることができたのか。その証言を集めるためスタジオには江夏豊さんら関係者が呼ばれた。
長らくカープ番記者として活躍した駒沢悟さんは、巨人西本聖から死球を受け、肩甲骨骨折の深手を負った際の、広島市民球場ベンチ裏でのエピソードなどを紹介した。
ところが6月13日の広島東洋カープHPには「鉄人」のての字も紹介されていない。
2018年4月28日、マツダスタジアムで衣笠氏の追悼試合があった際にも「献花台すらないのはどうして?」とカープファンから球団の対応を訝しむ声が上がっていた。
工事中なので仕方ない面もあるが、広島市や関係者はちゃんとリスペクトしているとは思えない状況に見える、望遠撮影なので何とも言えないが…
現在、旧広島市民球場跡地は工事中で、中に入ることができず、跡地内に残された「衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑」には近づけない。
広スタ特命取材班はマツダスタジアム移転に合わせてこれらのカープ関連モニュメントも当然、移設されるべきと考えていた。ここはファンの意見の分かれるところだろうが、トータルで考えればそれが道理というものだろう。
よって、ファンが献花することもできないまま「鉄人」は静かにきょうという日を思い出の地で過ごしている。
交流戦惨敗のカープナインも、もしもマツダスタジアム選手・関係者入り口近くに、衣笠さんの石碑があればその前で手を合わせて不屈のガッツを搔き立てることができたろうに…
カープナインが旧広島市民球場跡地まで足を伸ばして優勝記念碑や衣笠さんの石碑に接している姿を見たことがない。(セレモニーでの監督あいさつなどは除く)
いつか、ひろスポ!でも鉄人語録を紹介していきたい。書き留められたメモは山のように残っている。慶応大学関係の様々な施設を横目に衣笠さんのマンションを訪ねた日々もついこの間のことのようだ。(ひろスタ特命取材班)