画像は2016年、広島優勝パレードのワンシーン
カープ球団が11月18日、黒田博樹氏の球団アドバイザー就任を発表した。
黒田氏は背番号をつけない総監督、という立場になるのだろう。
佐々岡真司監督の辞任発表のあと、新井貴浩監督に白羽の矢が立ったことで黒田氏も“覚悟”を決めていたはずだ。チームのため、カープファンのためにと…
新井監督と黒田氏は主砲とエースだった。
黒田氏は1996年のドラフト2位で広島入り。新井監督は2年あとの1998年のドラフト6位入団。
1999年から2007年まで9シーズン、ともに旧広島市民球のグラウンドに立った。しかし達川光男監督時代の1999年と2000年はともに5位。2001年から2005年の山本浩二監督の下では4・5・5・5・6位だった。
2005年、新井監督はプロ7年目で四番に定着して43本塁打でタイトルを獲得。黒田氏も15勝12敗、11完投で最多勝利のタイトルを手にしたがチームは最下位に沈んだ。この年から始まった交流戦でも11位と惨敗。新球団・楽天が12位だったから実質、広島は国内最弱だった。
続いてマーティ・ブラウン監督に代わった2006年も5位、2007年も5位。そのオフ、黒田氏はメジャー挑戦のため海を渡り、新井監督は阪神にFA移籍した。
その当時、エースと四番が広島に止まることのできないウラ事情が球団内にはびこっていた。ここでは詳細については割愛する。もう過ぎ去った話を蒸し返しても何にもならない。
同時に広島を離れたふたりは野村謙二郎監督が退任し、緒方孝市監督がバトンを受けた2014年オフ、また同時に赤いユニホームに袖を通した。
1年目、チームは前年の3位から4位に順位を落としたが2年目、2016年には1991年以来のリーグ優勝を成し遂げた。24試合で10勝8敗の成績をもって黒田氏は広島-ロサンゼルス-ニューヨーク-広島と歩んだ20年間の現役生活に終始符を打った。
新井監督は2017年18年とリーグ3連覇に貢献してやはり実働20年で引退した。
それから4年。また同時に新井-黒田のふたりが揃ってカープファンの前に姿を見せることになる。
新井監督は藤井彰人ヘッドコーチ、新井良太二軍打撃コーチら、自身の希望するコーチ陣を招聘することが許された。同時にともに現役時代を過ごした同世代の人材を一、二軍コーチに配するという体制になった。
その新首脳陣のまとめ役、もっと言えば司令塔が黒田氏、ということになる。投手起用法などチーム全体のマネージメントについて、新井監督に助言できる立場にある。
人一番、責任感の強い黒田氏は、ユニホームを着ない分、余計にその立場に重圧を感じているはずだ。ふたりの鯉の物語の、第3章の扉が開く。(広島スポーツ100年取材班&田辺一球)