画像は渡辺恒雄さんの死去を伝える新聞各紙と「球界再編」とメディアの未来を綴った「赤ゴジラの逆襲」
読売新聞グループ本社の代表取締役主筆で、巨人オーナーや日本新聞協会会長も務めた渡辺恒雄さんが12月19日、肺炎のため都内の病院で死去した。98歳。
読売新聞入社は敗戦から5年後の1950年。政治部記者として活動する中で大物政治家を夜討ち朝駆けで取材、出世街道を歩み2002年に本社社長・主筆に就き、2004年に会長・主筆となった。経営トップと報道トップの椅子に同時に座るという特殊な体制が20年以上続いた。この役回りにはバランス感覚が求められる。昨今のNHKが頻繁に特集を組み、渡辺さんにスポットを当ててきたのは、勝手に想像するにその思考その発信力を本人の言葉で残しておく意図があったのではないだろうか?
2022年7月に銃撃され死去した安倍晋三元首相が2017年5月9日に行われた参議院予算委員会の集中審議で、憲法改正発言について問われた際に「自民党総裁としての考え方は読売新聞に相当詳しく書いてあるから、ぜひ熟読していただきたい」と答弁した件が波紋を呼んだことは記憶に新しい。
12月20日の朝日新聞紙面では「記者を脱し政界プレーヤー」「改憲思案安倍氏と蜜月」の見出しが取られていた。同日の読売新聞一面見出しは「現実路線各界に影響力」で中面には「スポーツ・活字振興尽力」「FA・ドラフト改革主導」「球界発展情熱注ぐ」などの見出しがあった。
ところで20日に広島で購入した読売新聞13版は34ページだった。このページ数は、新聞危機が叫ばれる現状では相当に多い方だ。同じく中国新聞17版(最終版)は30ページ、朝日新聞13版は28ページだった。付け加えると、広島地区発売のスポーツ各紙の年末紙面は、わずか20ページというのが当たり前になっている。スポーツ紙に…未来はない。
国内新聞部数のピークは1997年だ。1996年のアトランタ五輪をスポニチ記者として経験したひろスポ!取材班スタッフのひとり田辺一球は、その当時の新聞メディアの置かれた環境”をよく覚えている。取材費は潤沢で、外部からの文化人も複数招き連日、寝る間も惜しんで相当数のページを埋めるだけの情報を送信し続けた。1995年に会社から貸与された携帯電話は大きな武器になった。もういちいち公衆電話を探す必要はなくなった。
以後、「ケータイ」は、想像を遥かに超えるスピードで進化し、生活に浸透していった。中でも1999年1月にスタートしたNTTドコモ「iモード」は強烈だった。「ケータイ」でウェブページを閲覧できる世界初のサービスで「新聞・雑誌メディア」、「放送メディア」に続く情報ツールとなる「通信メディア」の誕生となった。
2004年6月13日、近鉄球団が大阪市内でシーズン終了後にオリックス球団と合併することを発表した。「根耳に水」と広島東洋カープの松田元オーナーは驚いたが、水面下ではシーズン開幕前から「球界再編」は着々と進められていた。主導したのは渡辺さんら経営者サイドだった。
田辺一球著「赤ゴジラの逆襲」(2004年11月20日初版)の中には次のような表記がある。
<おい、広島の新球場問題はどうなってるんだ。1月に近鉄がネーミングライツ(球団命名権売却)の件でひと騒動起こしただろう。コミッショナーも読売側の人間2月1日就任の根来泰周氏」になったし、球界はたいへんだよ。こっち(東京)ではカープが福岡に移転して福岡ドームでダイエーと一緒にドームを使ってやるって話もあるぞ。やっぱり器がないとダメだよ。新球場問題については他チームの上層部だって関心が高いんだからね>
上記の< >は当時のスポーツ紙関係者が筆者に“忠告”したもので3月28日付となっている。<新球場問題>とは、客が入らず老朽化が進む当時の広島市民球場に替わるスタジアム(今のマツダスタジアム)建設に向けての動きが遅々として進んでいなかったことを指す。
長らく巨人戦の放映権を球団収入の柱にしてきた広島球団は、おそらく渡辺さんら一部経営者サイドから「不要」と断じられたのだろう。当時、一番客が入らない球団が近鉄と広島だった。
同時に渡辺さんは人気球団同士での対戦カードを増やすことで視聴率や新聞部数の低下を引き留めようと考えていた。そのために必要な球団数は10ないしは8で「1リーグ制」移行を目指した。だが「たかが選手が…」「古田はファンに殺されるぞ」などという渡辺語録に加え、朝日新聞にドラフト有力選手への巨人の現金授受を報じられたことで渡辺さんは巨人オーナーを辞任、プロ野球初のストライキを経て2004年9月23日、「球界再編」の動きは止まった。(けっきょくこの球界再編騒動=市民球団と言われる広島東洋カープ消滅の危機、が新球場建設への動きをレールに乗せ、わずか4年後の2009年、マツダスタジアム供用開始となった)
ただ、球界再編を目論んだ渡辺さんの“読み”は正しかった。
正にこの時期に、世界標準のスマートフォンが日本に参入してきた。続いて2007年にApple社から発売された「iPhone」が2008年に日本上陸。2011年にはNTTドコモ社が日本独自の機能を備えた「スマートフォン」をリリースした。
こうした「ガラケーからスマホ」への進化の過程と、正に反比例するように新聞部数は減っていった。そんな動きに止めを刺したのがコロナ禍だった。同時にテレビから手持ちのスマホ閲覧へと人々の動画情報受信(発信も)手段も劇的に変化した。
「赤ゴジラの逆襲」には、次のような一節もある。
<6月30日、IT産業のライブドア堀江貴文社長が近鉄の買収を正式に表明した。衝撃的なこの“挑戦状”をきっかけに「新聞・テレビの旧メディア」と「IT産業のニューフェイス」の対立の構造も深まっていった。
9月末、日本テレビの氏家会長が「まあ、“たかが”と言うといろいろあるけれど…」と新規参入を目指すライブドアと楽天について語ったことがあった。
だが、いつでもどこでも手軽に情報を取り出せる通信技術は、放送業界に多大な影響を与えることになりそうだ。(中略)観る側からすればそれが通信技術だろうが放送システムだろが関係ない>
国内全体の新聞部数は1997年の5377万部をピークに3000万部を切るところまで追い込まれている。かつて1000万部を誇っていた読売新聞ですら600万部を切った。それでも現読売経営陣は「紙の新聞」の王道を進む方針に変わりはないという。全米新聞協会などは1916年7月、名称をニュースメディア連合に変えて「新聞」の名を捨てているのに、だ。
“黒船”は国内放送業界の様子も一変させた。スポーツのライブストリーミングサービス「DAZN (ダ・ゾーン)」の日本上陸は2016年8月。中途半端な中継終了となる地上波から有料配信へと軸足を移す視聴者の動きはもう止まらない。
新聞読者やテレビ視聴者がネットメディアに流れることで2021年、インターネット広告費がマスコミ4媒体(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ)合計の広告費を初めて上回った。この流れもやはりもう誰にも止められないだろう。
こうした“未来”を予想したある国内雑誌メディアは新聞や放送メディアを「旧大陸のメディア」、ネット媒体を「新大陸のメディア」と表現していた。この旧大陸から新大陸への大移動には耐えがたいほどの労力や苦難(例えば新聞販売店の全閉鎖)が伴い遅々として進まない状況が目に浮かぶ。それどころか危機感の欠如?なのだろう、放送業界では番組捏造や出演者の事故、あるいは最悪のケースとしての自死事件などトラブルが相次いでいる。NHKも含めて何十年もスルーしてきた「ジャニーズ事件」は英国BBCによってやっと詳らかにされたが、真実を語れないようで何のための報道機関か!「真実ではないメディアは?」との問いに対して「テレビ」と答えた小学生アンケート…笑えない話は山のようにある。
12月20日の中国新聞には「巨大部数で政治に影響力」との見出しもあった。だが、宅配という世界で唯一のシステムにより国内に遍く日刊紙を届けていた旧大陸は新大陸の住民にとっては完全に過去のものになろうとしている。(ひろスポ!取材班&田辺一球:この記事は福山大学、福山平成大学「スポーツとメディア」講義でも利活用されます)