旧広島市民球場のスコアボードは1994年10月に開催された広島アジア大会に向けて新たに設置された。
リーグ優勝と西武との日本シリーズを経験することで、前田は球界を代表するスラッガーへの道を歩み始めた。工藤公康、郭泰源、渡辺久信、潮崎哲也、鹿取義隆らそうそうたる顔ぶれと対戦し、打つことに関してはまた一回りスケールが大きくなった。
その翌年の1992年、山本カープ4年目。チームの成績は4位と急降下したが、背番号31に替わった前田は全130試合に出場して152安打、19本塁打、89打点、18盗塁。打率も3割8厘で初のベストナインに選出された。あの日、松井の愛車の中で少し寂しそうな表情も見せていた前田とはもう別人のようでもあったし、何も変わらないような感じもあった。守っても、走っても一流で、何よりグラウンドでの立ち姿がカッコ良かった。
いつの時代にも「カープ女子」はたくさんいる。試合後、広島市民球場から駐車場に向かう途中、高校生ぐらいの女性ファンに追いかけられたこともあった。寮では江藤とともに電話当番だったが、ある日江藤が「電話だよ」と言うので出てみると相手は見知らぬ女性だった。
山本監督5年目のシーズンとなった1993年、チームは最下位に沈んだが、それに反発するかのように前田は凄みを増していった。2年連続で全試合に出場して27本塁打と長打力がつき、打率も3割1分7厘へと上昇した。
シーズン後にチームの指揮官が交代した。そして11月のある日、大野合宿所に姿を見せた三村敏之新監督は、報道陣に囲まれてこう言った。「僕からも何でも言わせてもらうけど、みなさんからもいろいろ聞いて勉強したい」
「対話」重視の方針でチームの変革を進める三村カープはほどなく独自色を出し始めた。緒方孝市がレギュラーの座を見据え、金本知憲も30ホーマーを狙える大砲としてその存在感を示し始めた。
ここに1993年に34本塁打で初タイトルを獲得した江藤、すでに盗塁王を二度獲得して球界を代表するリードオフマンに成長した野村、それに1994年のシーズンから背番号「1」を背負うことになった前田が加わり“セ界最強”の「ビッグレッドマシーン」が誕生した。
(つづく)