前回のひろスポ!で紹介した旧広島市民球場跡地でのスタジアム展開パース、別角度からの作品。原爆ドームから見る形となっている。手前、電車通りに沿ってビジターシートがある。ビジター側は他の3つのスタンドに比べて屋根の高さを抑えた構造となっている。世界遺産、原爆ドームの周辺景観を意識したもので、屋根の高さをさらに抑えたり、一部スタンドを「切り抜く」ことでピッチから原爆ドームが目視できるようにすることも、ひろスポ!では提案したい。
旧広島市民球場跡地に一刻も早くサッカースタジアム新設を!その意義を2016年、年明けに探る。
第5弾は2012年11月にひろスポ!運営母体のスポーツコミュニケーションズ・ウエストから発刊された「CARP2012-2013永久保存版」に掲載された特集「広島市民球場跡地には複合型多目的スタジアムが必要不可欠」から引用の記事を紹介する3回目。
今回は、この特集「広島市民球場跡地には複合型多目的スタジアムが必要不可欠」から場解体と 球場跡地を巡る動き」の「本文」の中から当時の「街の声」を代表してピックアップした、地元大学生、サッカー関係者、メディア関係者の声を中心に紹介する。
また後半では、ソウル東大門の「球場跡地活用策」の今を探る。
広島市民球場跡地には、複合型多目的スタジアムが必要不可欠!〜スポーツで都心部の歴史と文化を継承〜
この跡地委員会には地元の大学生3人も名を連ねており、「未来志向」的な論議が期待されます。 一方で、広島大学博士課程に通う熊谷将紀さんのように、学びながら別の形で「サッカースタジアム」に関わっている大学生もいます。
熊谷将紀さんは、広島県サッカー協会、サンフレッチェ広島、サンフレッチェ広島後援会の3者によって2012年9月に始まった「サッカースタジアム建設早期実現」のための活動「START FOR 夢スタジアムHIROSHIMA」に個人的に参加しています。
「球場解体問題」とその「跡地活用策」についても強い関心を抱いてきた熊谷さんの声は、松井市長の言う「若者を中心とした賑わいの場」の創出に向け大変貴重です。
熊谷さんの話
市民球場ラスト イヤー。当時大 学2年生だった 私は毎試合のよ うに市民球場で カープを応援し ました。選手と 観客が一体になれるあの雰囲気が今でも忘れられません。市民球場が無くなった今、広島の中心部に人々が集い、盛り上がることが出来る場があるでしょうか?
また私は「原爆投下により傷ついた広島の戦後復興を支えたのはカープと市民球場であった」と祖母やたくさんの方から伺いました。 『スポーツ』と『人々の集うスタジアム』。閉塞感の漂う広島をもう一度活気のある街にするために今、この2つが必要なのではないでしょうか?
原爆ドームからほど近いこの場を、これからもスポーツで広島を活気づける場に。そして平和公園で平和を学び、新スタジアムで平和を発信していく!これが今の広島に求められる姿ではないでしょうか?
熊谷さんらが進める「サッカースタジアム早期建設実現」のための活動のひとつに20万件を目標にした署名活動があります。2012年10月18日の時点で署名数は10万人を突破しました。1992年のJリーグ発足以降、幾度となくスタジアム建設推進の声をあげてきた県サッカー協会会長の小城得達さんの言葉にも力が入ります。
小城さんの話
とにかく便利な 場所に2万5000人 から4万人規模の スタジアムが欲 しい。今の場所 (広島ビッグア ーチ)はどうし ても気合いを入れて行かないといけない。イングランドを例にとると、ぶらりと行ってぶらりと帰るのがサッカーなんです。そういう形だとその地方、地方にサッカーがしっかり根付くことになる。もちろんコアな方も大勢いらっしゃいますが、ご年配の方でも楽な感じで通えるスタジアムでなければいけません。
市民球場跡地は戦後復興の証です。野球で戦後60年以上に渡り広島の象徴としての賑わいの場を作ってきた場所です。ただ世界に平和を発信するとなると野球では難しい。サッカーは世界のメジャースポーツです。サンフレッチェが勝っていけば、アジアにも出ていきます。そうなると広島にも観光客がやってくるようになりますよ。世界中から広島にお客さんを呼び込むこともできる、ということです。
世界と繋がるサッカーだからこそ球場跡地に必要
小城さんは、1968年のメキシコ五輪日本代表メンバーとして銅メダルを獲得しました。草サッカーや子供たちのサッカー、アマチュアサッカーの上にJリーグがあり、さらにその先は世界に繋がっています。
その拠点になるスタジアムを広島市のど真ん中に誕生させ文字通り「世界との交流」を進めていこう!という訳です。 サンフレッチェ広島初代メンバーのひとりで現在はサッカー解説などで活躍中の吉田安孝さんも「球場跡地にはサッカー場」と言い切ります。
吉田さんの話
サッカーで世界 と繋がることが できる。その通 りです。逆に、 観光目的で広島 に来た外国の方 が、原爆ドーム のすぐお隣でサッカーの試合をやっていることを知ったら「日本のサッカーをちょっと見て行こう」となるでしょう?それが都心の真ん中にスタジアムがある最大の魅力です。
球場跡地にサッカー場、というのは一番の夢であり、実現しないといけない夢だと思います。
また、選手の立場から言わせていただくなら広島ビッグアーチはサッカーにはまったく向いていないんです。選手がかわいそうだと感じることもあります。観ている側も大変です。スタンドとピッチの間に陸上トラックがあって、しかも競技場自体が真上から見て真円形をしているため、余計にピッチが遠く感じられます。
東京の国立競技場にもトラックはありますがあそこはビッグアーチと比べてずいぶんスタンドと選手の距離が近く感じられます。 ビッグアーチはアクセス問題も深刻です。
サンフレッチェは優勝争いをしています。より多くのサポーターの声援が欠かせませんし、こんなチャンスをサッカーの盛り上げに活かさない手はありません。しかし、ビッグアーチは4万人を超えるキャパがあるにも関わらずこのところの入場者数の増加で試合開始前後の周辺道路は大混雑です。満員にしたくても運営上、それができないようでは本末転倒ですよね。
僕は寿人選手らの年代の人たちにもぜひ新スタジアムのピッチに立ってもらいたいと考えているんです。そのためには建設場所を早く跡地に決めて、すぐにでも建設へ向け取り掛からなければいけません。
子供のころからのカープファンで地元国泰寺高校出身の吉田さんが、県外の社会人チームからサンフレッチェ広島の前身、マツダSCに移籍してきたのは1991年のことでした。マツダの前身である東洋工業は1965年のJSL(日本サッカーリーグ)第1回大会で優勝しています。ちなみにその時の得点王が前出の小城さんです。
今度はその当時から広島サッカー界の取材を重ね、今もサンフレッチェ広島に関する記事などを手掛ける中国新聞OBの早川文司さんに「なぜ球場跡地には複合型多目的サッカースタジアムなのか」その理由を「広島とサッカー場の歴史」と重ね合わせながら尋ねてみました。
早川さんの話
JSLが始まった 当時、スタンド のある校庭は国 泰寺高校しかな かったんですよ。 広大付属高校で は観客とピッチ を仕切るロープ を張って試合をやっていました。雨の日に傘をさして写真を撮っていると「そこで写真を撮るな」と怒られたものです。国泰寺高校のスタンドは戦後復興のきっかけにもなった1951年の広島国体の遺産でした。
広島とスタジアムの関係に大きな転機が訪れたのは1992年ごろです。この年にJリーグが誕生しました。 この当時から収容人員の関係でサンフレッチェのホームスタジアムをどこにするか?という問題はすでに起こっていました。広島スタジアムを建て替える、あるいはビッグアーチのとなりの第1球技場にスタンドを増設するなどして2万人程度のキャパを確保する…。様々なプランが検討され、設計図も存在しました。
ソウル郊外新設された 複合型スタジアムは大賑わい
2002年にはサッカースタジアム構想を推進するためのプロジェクト準備室も設立されました。しかしこれもやがては「開店休業」状態となり、いずれの話も宙ぶらりんのまま、今に至っているという訳です。
私は2002年の日韓共催ワールドカップの時、韓国ソウル市郊外に新設されたソウルワールドカップスタジアムを見学しました。飲食店、映画館もある複合型施設で、私が行った休日は家族連れで溢れていました。地下鉄駅を降りてすぐ目の前でしたから、のんびり休日を過ごしたい人にはぴったりの場所のように感じました。 フィットネスクラブや200席ぐらいのイベント広場もありました。ギャラリーもあってその日は日韓共催を記念した写真やユニホームが展示されていました。交通の便の良い市街地にいろいろな集客施設をもったスタジアムがあると試合のない日でも賑わうということです。
ソウルのケースを考えれば広島市民球場跡地は複合型多目的タジアムを作るには最適の場所と言えます。カープが市民球場を使っていた頃、ファンは試合の前とあとで球場周辺を積極的に回遊して飲食も買い物もどんどんしましたし、その逆もありました。街の真ん中にあるスタジアムを多目的で使えば周辺への集客も期待できると思います。
ソウルワールドカップ競技場レイアウト、当然ながら大きな通りに面している。この案内図右端は広大な駐車場、地下鉄駅はスタジアムの左手に隣接。
地下鉄駅から出ると目の前にスタジアムが見える
スタジアムはアクセスする「角度」によって、大型商業施設としての表情を見せる
モールの入り口、広大な駐車場側に面している
中に入ると…
一方こちらはソウル中心部、東大門に向かう清渓川の夕暮れ
東大門、ファッションビルなどの集積エリア、広島で言えば紙屋町…そしてソウルでも広島の未来の、むしろ失敗例を暗示するような”現象”が…
ファッション最先端ビルの中に、特徴的な施設の影…(右側)
2020年東京五輪新国立競技場の設計者として注目されているザハ・ハディット氏設計の東大門デザインプラザ。2014年3月オープン。新サッカースタジアム取材班は2015年夏撮影。
取材班サービスカット
取材班秘蔵オルチャンカット
画像の道路の向こうがザハ・ハディット氏の「作品」、しかし買い物客はほとんど興味を示さない
自由に入れる施設内は閑散
3Dプリンター作品
夏休みなのに同じく閑散
内部構造も外観同様、特徴的、そして…
施設屋上部からは周辺公園緑地と照明灯が見える
東大門デザインプラザ(DDP)は、実はかつての野球場のあとに建てられた。まさに「球場跡地活用策」のひとつ。
東大門野球場は1959年に誕生した。1982年韓国プロ野球が産声を上げたのもここ。しかし1988年のソウル五輪へ向け蚕室総合運動場野球場が完成。MBCが本拠地を移転して行った。その後はアマチュアが使用するなどしていたが2007年12より球場の解体が始まった。そして「緑地やデザイン複合センターなど」という要するに今の広島市とうり二つのコンセプトでDDPの出番となった。
もちろんソウルでも大きな論議が巻き起こった。「アーティストのための施設」という説明に地元商業関係者は納得しなかった。
デザイン振興産業を都市戦略に据えるソウル。その挑戦の「旗艦」としての活躍が期待される24時間開放のDDP…。しかしその街の成りたちや顧客ニーズに沿ったものであったかどうか、という視点で見るとことさら微妙…。ただし、跡地が増える一方の広島市街地を思えばやってのけるバイタリティーには拍手…
ハンギョレ新聞、DDPオープン当時の記事 japan.hani.co.kr/arti/culture/18577.html
新サッカースタジアム取材班