エディオンスタジアム広島バックスタンドには、サンフレッチェ広島クラブエンブレムをかたどった一文字が浮かび上がった(画像説明)
エディオンスタジアム広島が紫に染まった。2023年11月25日・土曜日、J1リーグ全34節のラス前、第33節は”あの日と同じ”ガンバ大阪戦。
試合前のバックスタンドには、サンフレッチェ広島のエンブレムをかたどった一文字が鮮やかに浮かび上がった。
サポーターの熱気に圧倒されたかのようにガンバ大阪は思うように動けず、前半だけで2失点。大声援を追い風い開始早々から始まった猛攻ではサイドからのクロスを前線で張るMF満田誠、さらには右ウイングのMF中野就斗が次々に頭で叩き込んだ。
後半に入っても流れは変わらず53分、中央からMF川村拓夢の縦パスに抜け出したトップ下MFの加藤陸次樹が技ありゴール。J1残留に向け重圧のかかっている相手にシュート21本を浴びせて快勝した。
試合後にはGK林卓人の引退セレモニーとともに、エディオンスタジアム広島でのJリーグ公式戦開催最終日に、無数の思いを込めたセレモニーが行われた。
エディオンスタジアム広島の呼称は2013年3月から。その前は広島ビッグアーチと呼ばれていた。正式名称は広島広域公園陸上競技場。そうサッカー場ではない。
だからそのピッチには「織田幹雄記念ポール」が立っている。高さ15メートル21センチ。1928年のアムステルダム五輪、陸上競技・三段跳びで日本人初の金メダルを手にした広島県安芸郡海田町出身の織田幹雄氏の偉業を称えたもの、だ。
1994年10月に開催された広島アジア大会に向けて、広島広域公園とその周辺は新たな居住・交流・産業の拠点「西風新都」として整備が進められた。紙屋町と結ばれているアストラムラインもそうだ。
広島広域公園陸上競技場のこけら落としは1992年10月・11月に行われたAFCアジアカップだった。今なお現役の三浦知良もそのピッチに立ち、日本が優勝した。決勝戦、ゴールを決めたのは高木琢也。日本代表、アジアの大砲は1993年にスタートしたJリーグでもサンフレッチェ広島の攻撃の核になった。
今季はJリーグにとって30周年に当たり、サンフレッチェ広島での広島広域公園陸上競技場で戦いは1993年5月22日の1戦目から数えて546試合目。
ミヒャエル スキッベ監督はセレモニーのあいさつで見事にみんなの思いを代弁した。
「このスタジアムは私にとってのふるさとです。このスタジアムで私のチームは良いサッカーをすることができました。最終戦勝利で終われたことを嬉しく思います。この熱い情熱を持ったまま新しいスタジアムに行き、同じ情熱で戦っていきたいと思います。Jリーグでのこれまで30年間、みなさん、ありがとうございました。来シーズンは新しいスタジアムで会いましょう!みなさん!楽しみにしています」
サンフレッチェ広島の主戦場は、この12月に広島の街のほぼ真ん中で完成の時を迎え、2024年シーズンよりエディオンピースウイング広島の名で新たな歴史を刻み始める。
それは直線距離にしておよそ6キロしか離れていないマツダスタジアムとマツダスタジアムの主、広島東洋カープにとっても新たな時代の幕開けであることを意味する。
ワールドカップカタール大会でドイツ、スペインを撃破した森保ジャパンは現在、2026ワールドカップ北中米大会・アジア2次予選の最中にあるが、森保一監督の原点もまた当時のオフトジャパンのメンバーに選ばれた1992年のアジアカップだった。
その決勝、イラン戦のピッチに立ち、そのあともサンフレッチェ広島の中心選手として広島ビッグアーチで戦い続けた。今は川村拓夢がつける背番号8は初代メンバーで「闘将」と呼ばれた風間八宏が背負い、「7」の森保一がその訓えを引き継いだ。
そして紫の疾風を呼び込む監督となってからは2012年、13年、15年と3度もJ1リーグ優勝して広島スポーツ100年に偉大な足跡を残した。
2012年12月16日、平和大通りが紫一色となり、広島の人たちにとっては37年ぶりの優勝パレードが始まった。1975年10月20日、カープ初優勝パレード以来の王者の行進だった。
2013年は日程の都合で優勝報告会が旧広島市民球場跡地で開催された。
2015年はレギュレーション変更によって年間勝率1位となったサンフレッチェ広島がチャンピオンシップ決勝でガンバ大阪の挑戦を受けた。
敵地での第1戦を3-2で取ったサンフレッチェ広島は中2日でエディオンスタジアム広島に3万6609人を集めて迎えた第2戦を1-1のスコアで乗り切り再び平和大通りでの優勝パレードを実現した。
この日はあいにくの雨。それでもパレードのあと旧広島市民球場跡地であった優勝報告会はサポーターの異様な「熱」に包まれた。主催者紹介で広島市の室田哲男副市長の名が呼ばれると会場からはブーイングが起こった。
2013年最終節での2度目の優勝前に「(優勝されるとスタジアム建設を進めないといけないので)サンフレッチェ広島は2位でいい」と発言した松井一実市長は欠席。そして跡地中に響き渡る声で当時の千葉和彦選手会長が”宣言”した。
「きょうは、雨の中、この市民球場跡地、いや、新スタジアム建設予定地にお越しいただき誠にありがとうございます!!」
森保一監督もまた3度Jの頂点を極める中で「平和とサッカー」「平和とスポーツと広島」を実現する「ピッチから原爆ドームを望むことができる旧広島市民球場跡地の新スタジアム実現」に誰よりも汗を流していた。
この頃、カープ松田元オーナーはサンフレッチェ広島の本拠地が旧広島市民球場跡地に建設されることを恐れ、メディアをコントロールして「新スタジアムを旧広島市民球場跡地に」の声を消しにかかった。その片棒を担いだのが「2位でいい」の松井一実市長であるのは誰の目にも明らかで、この広島ツートップのワンツーパスにより、様々な”妨害工作”が水面下で進められた。
同時に、カープ球団関連企業のアンフィニ広島を通じて「優勝パレード用オープンカー」がマツダスタジアムの駐車場に留め置かれた。
2015年と言えば黒田博樹、新井貴浩の復帰元年でもあった。そして2016年からのリーグ3連覇…。赤く染まった平和大通りを体感した人々は口々に「今度は赤と紫の同時パレード」の夢を語るようになったのである。(ひろスポ!広島スポーツ100年取材班&田辺一球)
※この記事は田辺一球|noteを流用しています。