画像はJR庄原駅
野球殿堂入りを果たした谷繁元信さんは庄原市出身にもかかわらず、なぜカープとは縁がなかったのか?
田辺一球|noteより<カープダイアリー第8498話「”巨人の星”目指した谷繁元信さんがもしも広島工に進学していたら…」(2024年1月19日)>の記事を引用する。
カープダイアリー第8498話「”巨人の星”目指した谷繁元信さんがもしも広島工に進学していたら…」(2024年1月19日)
黒田博樹さんと谷繁元信さんの野球殿堂入りについて、各紙は紙面を割いてその偉業を称えた。中国新聞中面の見出しは「心打つ15番の献身」「残留・復帰ファンに応え」の見出しに新井貴浩監督の「本物のレジェンドで誇らしい存在」の言葉も添えた。
また「代え利かぬ名捕手」「屈辱の交代成長の原点」の見出しで紹介した谷繁元信さんの記事は、「打撃タイトルとは無縁。そんな谷繁が出場試合数のプロ野球記録を持つのは、守りの要として代えの利かない存在だった証だ」の書き出しになった。
谷繁元信さんは広島県北の庄原市生まれ。広島市内から高速道を使えば1時間ちょっとで三次に到着、そこから17キロで庄原インターチェンジがある。広島バスセンター発の高速バスならおよそ2時間かかる。ちょうど100キロある。
三次の場合は地元をあげて野球少年を育成する土壌が古くからあったし、近年は野球少女も続々と輩出しているが、わずか17キロの違いとはいえ庄原はそこまで野球の盛んな地域ではない。
それでも地元の少年野球チームの活動に熱心な関係者はいる。大阪万博が開催され日本が高度成長時代の真っただ中にあった1970年生まれ谷繁元信さんの原点は、その中のひとつ「東城ストロングボーイズ」だ。
そのプロ野球人生に多大なる影響をあたえたのは父・一夫さん(87)だ。だから今回の殿堂入りを誰よりも喜んでいるという。早くからその才能を見抜いて漫画「巨人の星」(少年マガジン、1966年~71年)を地で行くような日々が見事に実を結んだ。
一夫さんは2009年に自宅の隣に「谷繁元信 球歴館」をオープンさせた。自分で工夫して作った練習道具や記念写真などを多数展示して話題を呼び、テレビカメラも再三訪れていたが2カ月前に月に高齢で運営が難しくなったため閉館したばかりだった。
「才能は有限、努力は無限」
一夫さんはこの言葉を大切にした。とはいえ“練習”はすでに1、2歳のころから始まっていたというから驚きだ。
庄原市立東城中から「巨人の星」を目指して進路をどうするか?すでに県下で知られた存在になっていた谷繁元信さんには強豪校からの誘いがあった。
当時は闘将・小川成海監督率いる広島工が広陵をも凌ぐ強さを誇っていた。1985年夏から3季連続で甲子園へ。メンバーの中には高津臣吾現ヤクルト監督がいた。
しかし「ろくに勉強せずに」受験して不合格になり、二次募集をしていた島根・江の川(現石見智翠館)に進んだ。
同校がある江津市は山に囲まれた庄原市とは違って日本海に面した小都市だ。庄原市の人口も3万人そこそこだが江津市はもっと少なく2万人ちょっと。しかも「東京から一番遠いまち」になっている。
野球に打ち込むならこれ以上の環境はない。夏の甲子園に2度出場して高校通算で42本塁打。当時は「東の江藤(智、のちにカープ主砲)、西の谷繁」と言われた。
そして1988年のドラフトで大洋(現DeNA)から1位指名されプロの世界に飛び込んだ。この時、カープから指名されていたらどういう未来が待っていたのか?
同年、1位指名され赤ヘルをかぶることになったのは野村謙二郎さんだった。“運命”とはそういうものなのだろう。野村謙二郎さんは実働17年で2020安打を放った。谷繁元信氏は同27年で2108安打…
なお、谷繁元信さん受験の6年後に広島工に入学した新井貴浩監督は、野村謙二郎さんの自宅前でのバットスイングアピールに成功して?カープ入団。そこから数えて20シーズン2203安打でバットを置いている。
この項つづく