黒田本人に贈られたファンの思いが綴られた大旗
「広島のエース黒田博樹の素顔」第3回
原点は、甲子園組には絶対に負けない
2006年3月12日、底冷えのする尾道しまなみ球場は、試合前から地元の尾道ラーメンが恋しくなるほど…。冷たい風が吹き付け、冬に逆戻りしたような気候の下でのオープン戦は六回、黒田この試合で初めてマウンドに上がるとボルテージが一気に上がった。
スタンドの大歓声に迎えられ、ゆっくりと歩みを進めるその背中からオーラが漂う。そしてソフトバンク打線に格の違いを見せつける炎のピッチング、圧巻の17球が見ている者を熱くする、そしてそれまでにささやかれていた多くの不安材料も吹き飛ばした。
二段モーション矯正、王ジャパンの代表合宿で打球を当てた右手の回復状況、WBCメンバーを辞退したそのあとの気持ちの整理…。開幕まであと2カ月。黒田の06年シーズンは実質、この日幕を開けたことになる。
過去、幾多の試練を乗り越えてきた平成の剛腕、その強さ、その芯の図太さの原点は、黒田家の教育方針にあった、という。
「小、中学生までは地元で目立つ方でした。でも、母・靖子さんからはテングになるな、とよく「言われましたね。高校時代はエースになれず、お遊び程度の野球ができる関西の大学に進むことを決めかけていました」
硬式球を握った小3のころ。父・一博さんの率いる少年野球チームではエースだった。だが、上宮高校では野球エリートたちの中に埋もれていった。野球と本気で向き合うことはどうなのか?そんな気持ちでいる黒田の背中を一博さんが強く後押しした。
「大学でもう一度、勝負したらどうだ?」
人生の転機。靖子さんがさらに追い打ち?をかけてきた。
「大学に行くなら自立して。早くこの家から出て行って…」
元プロ野球選手の父と体育教師の母の訓えはその人格形成に多大な影響を与えた。と同時にこのころから強烈な「反骨精神」が芽生え始めた。
「甲子園組に負けられるか!」
その一念で東都大学リーグ最多優勝回数を誇る専修大学で投げまくった。
だが、その大学の4年間でも黒田にスポットライトが当たることはなかった。カープのユニホームに袖を通して1年目、同期入団の澤崎は新人賞に輝き、黒田は二軍の試合であとワンアウトが取れないまま延々と打ちこまれた。
黒田はエリートではない。常にピラミッドの一番下の方からその階段を上って行った。