自分を育ててくれた広島の山と海と、その風景と…
―ところで為末さん、小さい時はどんな感じだったのでしょうか?
為末 まあ、ガキ大将でしたよね。小学生のころは…。ただ、すっごいガキ大将ではなくて、それなりにセンシティブというか、ちょっと弱いところもあったりしました。
それと、感性はすごく鋭かった気がするんです。何となくですけど、大人の顔色をよく見ていたりとか、先生が怒りそうなタイミングをよく観察していたりとか、ぼんやりと全体を見ているということをやっていたと思います。
あとは、ほかで育ったことはないからはっきりとは言えませんが、最初にお話しした通り、育った環境に山と海があったというのはやっぱり大きいかなと思いますね。
―広島市の西部、五日市は山側が瀬戸内海に迫る地形ですからね。
為末 実は3日前に別の用事で宮島に行って来たんですけど、宮島の海岸まで友達2、3人とよく泳ぎに行ったものです。そんなの普通だと思っていたんですけど、東京に行ってみるとそうじゃないですよね。僕の場合は山にも海にも10分ぐらいで行けて、自然の中で育った影響というのもやはり感じますね。
そうやって自然を相手に体を動かす中で足が速いってわかったのが小学3年生ぐらいの時です。そこからずーっと走っていて中学2年ぐらいで急に速くなる、ということがあってから全国に出ることができる、そういうステージに入って行きました。
中3の時には全国大会で優勝しました。そのころが他の選手と比べた場合、一番抜きん出ていたと思います。だから当時は100メートルでオリンピックに行くぞ、と思っていました。
自らの中に秘められた才能、走りのピーク、将来性、その見極めは?
そのころは走り方とかをまだあまり意識していませんでした。先生に多少、言われる程度です。思い切り走ることしかやっていません。そういう意味では才能によるところが大きかったと思います。
―著書の中では「自分のピークが早く来た」というような記述も見られました。
為末 確かに早熟型というのはあったと思いますね。身長、体重、それ以外の数値もそのころからあまり伸びませんでしたから。伸び悩んで、どうしようといろいろ挫折みたいなことを味わう中で、子供のころからの「感性」とか「観察眼」が生きてきました。いろんな選手を観察したり、参考にしたりしたと覚えがあります。
―どうしたら合理的に跳べるか?と犬や猫の走り方も研究された、織田幹雄さんと同じ「観察眼」ですね。
為末 (笑)そう、まさにそうですね。そういうものは、つぼみが花開くためにけっこう必要な圧力だったんじゃないかなと思います。スランプを脱するための方策として、ですね。
―為末さんの成長の過程がかなり見えてきました。宮島でも元気に泳いでいた為末さんの目に、今の子供たちはどんな風に映っているのでしょうか。
為末 そうですね、3点あげるとすれば、まずひとつ目はハングリーさ、勝ちたいというハングリーさの希薄さ、ですね。(次回に続く)
3月18日、広島市民球場跡地で開催された
第3回広島かけっこキャランバンで、記念
写真に収まる為末さん
為末大(ためすえ・だい) 1978年5月3日生まれ、広島市佐伯区五日市出身。五日市中学2年生で15歳の時に、100メートルジュニアオリンピック記録を更新。
広島皆実高校2年時に100メートルで同級生に勝てなくなりハードルへの道を模索するようになる。
法政大学に進学し、20歳の時に大学選手権400メートルハードルで優勝。22歳でシドニー五輪に出場するが予選敗退。大学に残り、23歳で挑んだ2001年世界陸上エドモントン大会で日本人選手トラック競技初のメダルとなる銅メダルを獲得。
大阪ガスに就職するが、2004年にプロ選手に転向。翌2005年、世界陸上ヘルシンキ大会でも銅メダル。オリンピックも2004年アテネ、2008年北京と3大会連続で出場。
「侍ハードラー」の呼び名で長らく日本陸上界をけん引し、2012年に34歳で引退。「諦める力」(プレジデント社)ほか著書多数。
現在は株式会社侍で「為末大学」(tamesue.jp/)を主催。学校体育、社会体育などの場で「走ること」などを通じ、スポーツの普及・振興に務めている。
ツイッターのフォロワー数が20万人を超えており、その発信力は常に注目されている。