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【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア > サンフレッチェ広島 > 「パッション・ミッション・アクション」なくして前進なし、「参画と三角」なくして成功なし(広島経済大学経済学部スポーツ経営学科教授、藤口光紀#3)
2014年04月08日
編集部

「パッション・ミッション・アクション」なくして前進なし、「参画と三角」なくして成功なし(広島経済大学経済学部スポーツ経営学科教授、藤口光紀#3)

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広島と浦和、商圏は大きくなくてもいい…大事なのはその発想

―このところレッズの集客力にやや陰りが見えていますがそれでも昨シーズンはリーグ戦だけで約63万人を集めました。サンフレッチェは約27万5千人。レッズの商圏はどうなっていますか。

藤口 今は合併してさいたまし市(人口約122万人)ですが前の浦和市の時は40万人です。マーケットの話はよくありました。広げれば広げるほどビジネスチャンスは増える、とね。

だけど「核になる部分が最初は小さい方がいいんじゃない?」という話をずっとしてきました。広がるとサービスが均等でなくなる恐れも出てきます。核がしっかりしていれば、人が人を呼んでくれます。

2001年、さいたま市に移行する時にも「浦和レッズは浦和レッズなんだ」ということで名称はそのままにしました。広島もそうですが、全県下をホームタウンと言っているところは焦点がボヤケてしまう可能性があります。

例えばですが、市民球場跡地あたりでサンフレッチェが練習していると話も違ってきます。これまでの経緯など諸事情があることは知っていますが、今のままではサンフレッチェの選手の顔が見えません。何らかの手を講じる時に来ています。

市民球場跡地あたりでサンフレが練習すれば”ぼやけ”がちな「商圏」もより明確に…

―お話を聞いているとレッズと県、市の関係は良好そうですね。

藤口 レッズも最初は練習場もなく河川敷でやっていました。そのあと市の土地を会社が整備して市に提供してそれを借り上げる形で練習場を確保しました。市と掛け合って市長直轄の窓口「市長公室」を作ってもらい我々はそことの交渉で話を進めました。

やはり一緒でなければできませんよ。最初に市を訪ねた時には「東京から来られたんですってね。で、何をやるんですか?」みたいな感じでした。「そうじゃない、浦和レッズなんです、一緒にやりましょう!」とね。

後援会を作る時にもみんなで喧々諤々やりました。すでにサポーターズクラブがあるんだから、二つはわかりにくくてダメだという声もありました。でも「商店街のおじいちゃん、おばあちゃんたちもスタジアムに行けないけど応援したい」というような声が市の方から上がってきたんです。

その当時はクラブ、サッカー協会、県、市などで構成する7者協議会というのをやっていたんですが、「こんなんじゃダメだ」と途中で会議を退席する人まで出てきたり…。

―熱いですね。藤口さんも相当熱いですけど…。

藤口 やはりパッション、ミッション、アクションですよ。

主張し合うことです。今から思えば、みんな本気だった、ということですね。

 

藤口光紀さん
藤口光紀(ふじぐち・みつのり) 1,949年8月、現在の群馬県前橋市に生まれる。中高一貫の新島学園(群馬県安中市)では中学時代、陸上競技部に所属、高校でサッカーに転向する。
慶應義塾大学に進学して3年時に日本代表デビュー。1974年、三菱重工業株式会社に入社。日本サッカーリーグで活躍。78年には、日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯の三冠達成。
ドイツ、スペインへのサッカー留学も経験。そこで見聞きした、町まちの風景にとけ込むようにサッカーを楽しむ人々の姿やサッカー文化の奥深さは、サッカーと向き合う上でのその後の姿勢に大きな影響を与えた、という。
Jリーグ発足に向け、三菱自動車工業株式会社の子会社としてプロサッカー運営母体、株式会社三菱自動車フットボールクラブ(浦和レッズ)が設立され、三菱重工相模原製作所の総務課長だった藤口氏は同社事業広報部長に転身。「自分の将来より、日本のサッカーを良くしたい気持ちが強かった」
しかし、浦和レッズはJリーグ元年の1993年と翌94年、連続最下位。逆風の中、クラブは地域密着やホームスタジアムでの試合開催の徹底などブレない運営・経営方針を貫き、熱狂的なサポーターの支持を追い風にビッグクラブへの道を歩み始める。
2006年6月、浦和レッズの代表(株式会社三菱自動車フットボールクラブ代表取締役社長)に就任。同年、チームは悲願のJ1リーグ初優勝を果たす。翌2007年にはアジアチャンピオンズリーグ(ACL)も制し、クラブワールドカップ(CWC)では日本のクラブ初の世界3位のクラブとなる。その年は、ACLなど公式戦合計のホーム観客数はついに100万人を突破。08年にもJ1リーグ史上最多の80万9353人(1試合平均4万7609人)の集客数を誇った。 2009年4月に社長を退任。
2011年4月より、広島経済大学経済学部スポーツ経営学科教授として、若手人材の育成に舵を切る。

※このインタビューは広島経済レポート発行の「Vitamin」と共通です。

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