観音に5対6で惜敗して県総合グランド野球場を背に整列した竹原ナインと迫田穆成監督(左から二人目)
コロナ禍での県独自大会の開催となった特別な昨夏を経て第103回全国高校野球選手権広島大会が7月10日に始まりました。
参加チームは、加計・向原・加茂北・河内・昭和連合チームを含む90校、86チーム。2019年の90チームから4枠も減ったことになります。しかもメンバーが9人の上下や10人止まりの因島、並木学院は来年以降どうなるでしょうか…
硬式野球部員部員数の急速な減少は全国的な課題になっています。町を挙げて地域のスポーツ振興にどう取り組むか…
今年もまた7月上旬に広島県内に降った大雨で住宅浸水などの被害の出た竹原市。人口減少の続く地方都市にはなかなかいいニュースがありません。そんな中、いえだからこそ地元のみんなが気持ちをひとつにできるものが大切になってきます。竹原高校野球部もそんな存在になりつつあります。
2019年7月、80歳になったばかりの迫田穆成さんが竹原高校の監督に就任したことで、1974年夏の県大会準優勝の竹原市の記憶が蘇り始めました。夏を終え竹原新チームのメンバーは10人しかいませんでした。でも、迫田穆成さんは「数年で県ベスト4へ」の明確な目標を掲げたのです。
2020年3月、高校の近くの商店街の一角に選手のための最初の宿泊施設「雄光寮」ができました。竹原高校PTA会長で保護者会会長も兼任する黒田雄次郎さんが所有していた元衣料品店を全面的に改装したものです。
寮の1階には迫田穆成さんが広島商、如水館、日本代表チームを率いて手にしてきた栄光のメダルや、「打倒江川」ほか幾多のエピソードを綴った資料などが置かれました。地域の人たちに見てもらうためです。ただ、入寮生ふたりを迎え入れたあと、わずか12日間で高校は臨時休校になり寮生活もストップしました。
竹原の商店街の一角にある雄光寮
竹原高校グラウンドで行われた広島新庄との練習試合、捕手は吉本陸翔君
そして6月下旬、竹原高校のグラウンドに大勢の竹原市民がやってきました。相手ベンチには県内の頂点にいる広島新庄ナイン。そう、コロナ禍で練習に大きな制約が生じる中、この年の春まで新庄高校を率いた迫田守昭さんとの“兄弟対決”が竹原の町中で実現したのです。
その2週間後、第102回代替大会の初戦がやまみ三原市民球場でありました。相手は観音。0対8、五回コールド負けでした。迫田穆成さんの復帰戦は完敗…。ただ、1年前に呉港に1回戦で敗れた時のスコアは0対17でした。
この試合、観音の主戦投手の球威に押されて放ったヒットは2本止まり。そのうちの1本は1年生の吉本陸翔君が引っ張ってライト前に放ちました。彼は第1期寮生のひとり。迫田穆成さんの下で野球やるために広島市内の実家を離れ、文武両道を目指す寮生活で高い目標を掲げています。
早朝、竹原高校グラウンドで出発に先駆け整列した竹原ナイン、このメンバーでこの場所に立つのはこれが最後…
そしてこの夏は代替大会ではなく、真に広島王者を決める戦いとなりました。竹原は7月16日、再び初戦で観音と激突…
会場は相手の本拠地、県総合グランド野球場。竹原ナインには馴染みの薄い場所ですから完全にアウェイ状態です。
先制したのは観音。初回に2点、五回に1点、六回にも1点。後攻めの竹原は観音先発の岡崎晃大君(2年)の球威に押され、五回までは七番・吉本陸翔君が放った左前打と先発兼五番を任された新納涼介君(2年)が放った右越え二塁打のみ。
でも、4点を追いかける六回の攻撃で、やはり雄光寮で鍛える二番・藤井龍志郎君(2年)が右中間を破り反撃のノロシを上げました。さらにエースナンバーをつけ四回途中から五回途中まで救援マウンドに上がった中本聖人君(3年)が右前打してまず1点。主将の六番・和気蒼汰君(3年)の左前打でチャンスを広げて吉本陸翔君と八番の方山凌汰君(2年)の連続タイムリーで1点差まで詰め寄ったのです。
一度は中本聖人君にマウンドを譲ったものの、再び観音打線と勝負することになった2年生左腕、新納涼介君は七、八回、真っすぐが走るようになり、スコアボードにゼロをふたつ並べました。
試合の流れが竹原サイドに傾き始め、そして八回の攻撃で無死一、二塁として送りバントを決め、一死二、三塁。ここで吉本陸翔君が中前に同点打。なおも一、三塁で方山凌汰君は見ごとなバット使いの一塁線スクイズ。バックホームが野選となってついに竹原が勝ち越したのです。
でも観音も諦めません。九回、2本のヒットで無死一、二塁。このあと竹原の守備が乱れて5対6。勝利を意識した瞬間にまた勝利の女神が逃げていきます。それが高校野球…
竹原、九回の攻撃は5球でツーアウトになりました。ひとりで投げ抜いてきた観音の岡崎晃大君、あとアウトひとつ…ここでも同じことが起こります。
打席の新納涼介君は一度もバットを振らずフルカウントから四球を選びました。和気蒼汰君左前打、吉本陸翔君はこの日4安打目の中前打で満塁…
「絶対に最後まで諦めてはダメ」
迫田穆成監督から繰り返しそう聞かされてきた竹原ナインのメンタリティ、その勢いに一度は押されかけながら最後に盛り返した観音ナインのたくましさ。
どちらが勝ってもおかしくない好ゲームは、片山凌汰君の見逃し三振でゲームセットとなりました。その熱い戦いと迫田穆成監督の姿に感動のあまり涙をこらえきれなくなる保護者も…。そして、2014年以来の竹原夏1勝は持ち越しとなったのです。
道の駅たけはら、展示の一部
竹原高校にほど近い「道の駅たけはら」2階フロアには6月下旬、野球部を応援する特設コーナーが開設されました。同校が準優勝した時の記録や記憶、それに雄光寮にあった迫田穆成さん所蔵の記念品などが展示されています。
5月にユーチューブデビューした迫田動画も流れるフロアは、高校野球ファンでなくても魅了的な空間になっています。
道の駅のスタッフのひとり、長男が野球部で迫田穆成さんの指導を受けた大久保史代さんが「みんなが応援しているので、地元をあげて盛り上げたい」 と開設を思いつき実現にこぎつけました。
展示内容を説明する大久保史代さん
展示の一部
1974年大会で竹原を準優勝に導いた望月卓也投手、この年のドラフトでカープに2位指名された、この画像は旧広島市民球場での雄姿
迫田兄弟思い出の一枚
展示の最終日は9月30日の予定です。8月5日には竹原高校のオープンスクールも予定されていて、そこで道の駅展示や町中2カ所に点在する寮の姿も見学してもらう予定になっています。
こうした町ぐるみの取り組みは、迫田穆成さんの強い思いとも重なっています。広島商、如水館を率いて甲子園出場14度、県内王座の立場で長らく高校野球と向き合ってきた名将にとって、部員10名ちょっとの町からの挑戦は並大抵のことではありません。
その原動力となっているのは「野球がないと死んでしまう」という野球愛と「来年から募集停止の高校もあり、県外への流出と合わせてこのままでは先細りが加速してしまう」という危機感です。
7月で82歳になった名将の手元には野球連絡用にラインを駆使するスマホ、自宅にはYouTube用の簡易映像機器、そして体力維持のため欠かさぬトレーニングメニュー…
スポーツでもっと幸せな広島へ-
静かなたたずまいの竹原の町に響く金属バットの打球音。梅雨の空けた夏空の下、竹原ナインは観音戦からわずか中1日で、また新たなスタートを切ります。
※「川風の街、七色の光」は、戦前戦後を通じて広島の人々の生活に深く関わってきたスポーツのある風景を、この街の未来に繋げていくために”そのまま切り取って”残しておくひろスポ!連載コーナーです。(田辺一球)