画像は二岡ヘッド兼打撃チーフコーチらプロ野球選手を次々に輩出する三次の風景
12球団監督会議が1月16日、都内であった。一室に集まった12球団監督ら首脳陣。その中には新井監督、藤井ヘッドを語る際に欠かせない巨人・二岡ヘッド兼打撃チーフコーチの姿もあった。
スポーツ紙ほか、マスメディアが触れない3人の物語…
好評!田辺一球|noteより「カープダイアリー」流用シリーズを今回も掲載する。
カープダイアリー第8495話「監督会議で近大時代に五冠達成の藤井ヘッドと巨人・二岡ヘッドそろい踏み…三次プロ野球伝続編Ⅱ」(2024年1月15日)
キャンプインまでカウントダウン開始?都内で12球団監督会議があった。新井監督は高二軍監督、藤井ヘッドとともに出席した。
もう2年目だから堂々としたもの…。否、1年目からぜんぜん臆したような素振りは見せなかった。
今回が初参加となった指揮官が3人。楽天・今江監督、ソフトバンク・小久保監督そして巨人・阿部監督。
テーブルについた阿部監督の左には桑田二軍監督、右には二岡ヘッド兼打撃チーフコーチが座った。
藤井ヘッドはいろいろと思うところがあったに違いない。近大3年時には、二岡ヘッドともにチームの主力として春季リーグ戦、秋季リーグ戦、全日本大学選手権、明治神宮大会、全日本アマチュア野球王座決定戦を制して五冠を達成した。
そして新井vs二岡のエピソードの方は高校時代にまで遡る。
1993年秋、二岡と福原忍(阪神→同二軍投手コーチ)の両右腕を擁する広陵は、広島大会で頂点に立つ。しかしセンバツには届かず、94年夏の広島大会では優勝を確実視されていた。
「勝って周りを驚かせたい」
そんな熱い思いで広陵に挑んだのが新井主将率いる広島工だった。昨季、監督1年目で胸に秘めた思いは、実はすでに高校時代からの“得意技”だったことになる。
結果は4対3で広島工に軍配。「甲子園に行っても優勝できる」と言われた“二岡の広陵”を倒した新井主将はしかし4回戦で西条農に惜敗した。けっきょくふたりは甲子園の土を踏まないまま進学した。
駒大に進んでからは馬群に沈んだ?新井監督とは対照的に、二岡ヘッドの方は早くから各球団注目の存在になっていた。当時のドラフトは「希望枠」が採用されており大学・社会人選手に球団選択の権利が与えられていた。地元の逸材を是が非でも獲得したいカープは関西地区担当・宮本洋二郎スカウト投入で万全の態勢を敷いた。阪神、巨人も獲得の動きは見せていたが、明らかにカープリード…の空気が漂っていた。
4年生になった二岡ヘッドは夏休みに広島に戻り、その足で旧広島市民球場へ。地元放送局のディレクターが同行した。三次市内の実家に戻ると兄・聡さんも帰省していた。
「どうするんや?まだ決めてないんか」(聡さん)
「うん、まだね…」(二岡ヘッド)
1991年、広陵65年ぶりセンバツ優勝メンバーの聡さんは、弟の将来を気にかけていたようだった。そのあと、歩いてすぐのところにある父親の墓参りを済ませた。合わせた手のひらはマメだらけでボロボロになっていた。すさまじいほどに、だ。
二岡ヘッドの両親が交通事故に遭ったのは高校2年秋の広島大会準決勝の日だった。応援に向かう途中で、起きてはならないことが起こった。母親は無事だったが父親は帰らぬ人となった。
母と兄。家族3人でテーブルを囲み、語り合う風景はごく普通のものだった。そのあと、あれほどの大騒動が待っていることを予想する者はいなかった。