2007年沖縄キャンプで笑顔を見せる新井貴浩
報道陣に“衝撃”が走った。梵のFA残留と日本ハムを戦力外になった佐藤祥万の獲得の”ニュース“もぶっ飛ぶ特ダネが11月10日の夜になって飛び込んできた。
阪神自由契約の新井貴浩が広島市内で球団幹部と接触、交渉してそのまま“古巣復帰”が決定した。
「絶対に帰ってはいけないのでは…」
阪神に別れを告げ、レギュラーとして勝負をかけるための新天地探しを始める以前から新井貴の気持ちの中では、赤いユニホームを除外しようとする気持ちがずっと働いていた。
2007年11月7日、「新井FA移籍へ」の情報がその日の一部スポーツ紙朝刊やネットニュースで瞬く間に広がって行った。東京から新幹線で広島に戻った新井貴は群がる報道陣に「あす会見で話します」とだけ答え、そして翌日の涙の会見となった。
同じくチームを引っ張ってきた黒田博樹が球団にFA宣言の申請書提出とあいさつを済ませたのが11月5日。チームはこの時点で二人の”主役“を失うことになった。黒田から新井貴が選手会長の肩書を引き継いだのは2006年オフのことだった。
「広島ひとすじ」の一部スポーツ紙報道も手伝って、新井貴のFA移籍は「裏切り者」として広く広島のファンの間に浸透した。翌年の広島市民球場での凱旋試合ではスタンドはブーイングの嵐だった。それは金本知憲の凱旋試合の時より遥かに辛辣なものだった。
当時の新井貴と球団側の意見の食い違いがどんなものであったかは表に出ることなくこのままみなが“墓場まで持っていく”のだろう。
あれから7年…。新井貴が阪神との決別を表明した日、松田オーナーは「愛憎というか、出ていったことに対する憎しみもあるが、愛もある」と反応した。この記事を見たファンは異口同音に「意外な感じがした」とつぶやいた。
日本シリーズ期間中、阪神から1億3000万円減の年俸7000万円提示(推定)を受けた新井貴に残された道は条件提示を受け入れるか、それとも自由契約となるか、ふたつにひとつだった。そして「カープ選択」の道は当初、可能性ゼロに近かったが、この松田オーナーのひと言で、新井貴の古巣復帰へのレールが敷かれたも同然だった。
「あれだけのことを言って出て行ったのだし、その心意気を考えれば帰ってきて欲しくない」
ファンの中からはそういう声もあれば「帰ってきてまたチーム内に競争が生まれ、そして新井貴が戻ってきたから優勝できた、となればいい」とじっとこの”チャンス“を待ち望んでいたファンもいる。
“前回”赤いヘルメットをかぶっていた時の新井貴は「空に向かって打て!」と公言し、広島の青空に何度も何度も大きな弧を描くホームランを放っていた。
舞台は連日満員のボールパークに変り、監督もかつてのチームメートに変った。そして変わらぬ碧さのマツダスタジアム上空に向かって、またファンの夢を乗せた大アーチが舞い上がる。
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