旧広島市民球場で行われたパフォーマンスのひとつ。旧広島市民球場はすでに解体され、この風景に出合うことはできない。
「広島のエース黒田博樹の素顔」第6回
「日本に黒田あり」を印象づけたアテネ五輪
2004年に吹き荒れた球界再編の嵐。実際に近鉄球団は消滅し、紆余曲折あって楽天の誕生となった。その余波は広島にも押し寄せ広島東洋カープも一時期、消滅の危機にあった。
そのあとファンと球団がいかに良好な関係を構築できるのか?全国でさまざまな模索が始まった。その渦中に黒田もいた。そしてチームの先頭に立った。エースの双肩にはさらなる負担がのしかかってきた。
そんな黒田を入団当初から見てきた関係者のひとりがある時、本人にこんな話をした。
「エースと呼ばれるようになり、選手会長にもなって常に全力でものごとに取り組む。それは素晴らしいことだけど、どこかで自分を作り過ぎていないか?無理をしていないか?」と…。
自分のことをゆっくり振り返る暇などない。しかし、そう言われて自分を顧みることができた。貴重な体験だった。
ただ、黒田は意識して自分を作っているわけではなかった。その時々で目の前に立ちはだかる壁に全力でぶつかって行く。その積み重ねだった。
そんな中でひとつの転機となる出来事があった。15番のその背中が、そのころからいっそう大きく見え始めた。
2006年2月末、福岡ヤフードーム(当時)の巨大空間に熱気が充満していた。王ジャパンのメンバーに選ばれた30名が集う代表合宿。上原(巨人)や清水(ロッテ)と談笑する黒田の姿がそこにはあった。
3人はいわゆる「アテネ組」、日本代表先発投手陣の顔だった。
練習の合間に黒田が言った。
「プロで9年間やってきて一番大きな出来事はアテネ五輪です。(2004年8月開催、日本は銅メダル)大きな衝撃でした。それまではカープの中の世界が中心だったので…。こんなメンバーの中でトップになってやってやるんだ、という気持ちがわいてきましたね」
貴重な五輪の舞台では、ブルペンで投げていてもまったく異質の感覚に襲われたという。間近で見る日本最高度の技と力。そのひとつひとつが新鮮なエネルギーに変わり右腕に吸い込まれていくようだった。
この年、2004年は開幕戦で中日打線に大差でリードしていたゲームをひっくり返され、シーズンの最中には「もはやエースではない」のレッテルも貼られかけた。それらの屈辱を「反骨心」に変えて”世界戦”の舞台に立ち、1次リーグから3位決定戦までほぼ完ぺきな投球をした。「日本に黒田あり」を世界中に印象づけた。
黒田は言う。
「今回の(2006年3月)WBCでは新井が世界一になりましたよね。試合に出る、出ないではないんです。その中の30人にいることができた、それ自体が素晴らしいことなんです。新井には経験したことをぜひ、みんなに話して欲しいと思っているんですよ」
世界を見ることで自分が変わる。そう「環境が自分を変えてくれる」、そうやってどんどん大きな存在になっていく、「黒田とはどんな人物か」と問われれば、それが”黒田らしさ”ということになる。