浦和レッズ、元代表の目から見た広島は…
―藤口さんは2011年4月、広島経済大学経済学部に新設された、スポーツ経営学科の教授として広島に招かれました。キャンパスの雰囲気も含めて、その時の広島の印象は?
藤口 スポーツ系の学科そのものが新しいので、学生はやはり相当の興味を持って講義を受けています。広島のいいところは、野球はカープ、そしてJ1のサンフレッチェは2連覇ですから教える側としては困らないですよ。
ただ、最初にこちらに来た頃には400人程の学生を相手に、ほとんどがカープファンかなと思っていたら実はそうでもない…。四国、山陰、岡山に九州。いろんなところから来ていますからね。でもね、カープがクライマックスシリーズに出るようになったとたん、何なのあの盛り上がりは…ってね。
その一方でみんな「そこそこ」みたいな感じがしますね。サンフレッチェのJリーグ2連覇は本当にすごいことですが、けっこう街中はおとなしいでしょ?
-同感です。
藤口 僕は群馬を離れたあと東京中心の生活で地方は初めてですが、広島は恵まれているんですよ。食べ物はおいしい、気候は温暖で災害がない。コンパクトで生活しやすい。だからなのか、新しいものを欲しがらない傾向があるような気がしてならないんです。
例えばアンケートをとってみると、年配の方たちは「もうスタジアムはいらない」と言う。サンフレッチェにしても連覇したのに、2度目の優勝の方が前年より観客数が減少していますね。これはどうしてなんだ?と当事者はもちろん、みんなで考えないとね。
雨が多かったから?平日開催も多かったから?それで何でお客さんが減るのか?そこでスタジアム環境やアクセスの問題はどうなんだ?と、突き詰めていかないと…。
-藤口さんは、国内最大のクラブに成長した浦和レッズをJリーグ誕生の時からその目で見てこられました。そこでの経験をお聞かせ下さい。
藤口 Jリーグがスタートしたのは1993年です。最初は黙っていてもスタジアムにサポーターが押し寄せました。その最初の入り口でボタンの掛け違えをしたかどうか?この差が非常に大きいと考えます。
藤口光紀(ふじぐち・みつのり)
1,949年8月、現在の群馬県前橋市に生まれる。中高一貫の新島学園(群馬県安中市)では中学時代、陸上競技部に所属、高校でサッカーに転向する。慶應義塾大学に進学して3年時に日本代表デビュー。1974年、三菱重工業株式会社に入社。日本サッカーリーグで活躍。78年には、日本サッカーリーグ、JSLカップ、天皇杯の三冠達成。
ドイツ、スペインへのサッカー留学も経験。そこで見聞きした、町まちの風景にとけ込むようにサッカーを楽しむ人々の姿やサッカー文化の奥深さは、サッカーと向き合う上でのその後の姿勢に大きな影響を与えた、という。
Jリーグ発足に向け、三菱自動車工業株式会社の子会社としてプロサッカー運営母体、株式会社三菱自動車フットボールクラブ(浦和レッズ)が設立され、三菱重工相模原製作所の総務課長だった藤口氏は同社事業広報部長に転身。「自分の将来より、日本のサッカーを良くしたい気持ちが強かった」
しかし、浦和レッズはJリーグ元年の1993年と翌94年、連続最下位。逆風の中、クラブは地域密着やホームスタジアムでの試合開催の徹底などブレない運営・経営方針を貫き、熱狂的なサポーターの支持を追い風にビッグクラブへの道を歩み始める。
2006年6月、浦和レッズの代表(株式会社三菱自動車フットボールクラブ代表取締役社長)に就任。同年、チームは悲願のJ1リーグ初優勝を果たす。翌2007年にはアジアチャンピオンズリーグ(ACL)も制し、クラブワールドカップ(CWC)では日本のクラブ初の世界3位のクラブとなる。その年は、ACLなど公式戦合計のホーム観客数はついに100万人を突破。08年にもJ1リーグ史上最多の80万9353人(1試合平均4万7609人)の集客数を誇った。
2009年4月に社長を退任。2011年4月より、広島経済大学経済学部スポーツ経営学科教授として、若手人材の育成に舵を切る。
※このインタビューは広島経済レポート発行の「Vitamin」と共通です。