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【ひろスポ!】広島スポーツニュースメディア > ジュニア・生涯スポーツ > リオ銀メダルの「最強の4人」山縣亮太を輩出した広島の風土を為末大が語る(2)
2016年08月23日
編集部

リオ銀メダルの「最強の4人」山縣亮太を輩出した広島の風土を為末大が語る(2)

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為末大
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旧広島市民球場跡地で開催されたイベントで子どもたちを指導する為末さん

 

広島市西区出身で修道中・修道高卒の山縣亮太選手が見事、リオ五輪で銀メダルを獲得しました。

山縣選手がジュニア時代に通った広島ジュニアオリンピアクラブ(現在は特定非営利活動法人オリンピアプラス)の卒団生でもある世界陸上銅メダリストの為末大さんに、ひろスポ!では2014年3月「ひろスポ!開設記念」インタビューを行っています。

今回は山縣選手の偉業を記念して、為末さんのインタビューを再掲載し、世界最速を目指す風土がなぜ広島にはあるのか、についてもう一度探ってみたいと思います。

 

侍ハードラー、広島の真ん中で広島を語る(為末大、ひろスポ!開設記念特別インタビュー#2)2014年4月4日掲載

 

 明治の頃も今も変わらぬ、世界と渡り合う広島魂!

―為末さんが広島を離れたのは18歳の時。それから34歳で引退するまでの間、「広島出身」という肩書が想像以上に競技生活に影響を及ぼしていた、ということなんですね。

お話を聞きているうちに、自然に織田幹雄さんのことが思い出されてきました。明治38年、1905年、広島の海田市(かいたいち)に生まれた日本人初のオリンピック金メダリストです。以前、海田町施設を訪ね、織田さんの関連の記録や写真などをテレビカメラに収めたことがあります。

昭和3年、1928年のアムステルダム五輪、三段跳びで織田さんが世界を制した時、大会運営側は日本国旗の準備をしていませんでした。センターポールに上がった日章旗は明らかに通常よりサイズが大きなものでした。織田さんのライバルだった南部忠平さんがたまたま持ち込んでいたものを貸し出したようです。

誰も日本人が勝つとは思っていなかったのでしょう。為末さんの言う「不利なものに挑んでいく」姿そのままです。織田さんは当時、早稲田大学の1年生でした。それまでに散々、新聞紙面で「織田の力は限界」などと書かれ、その反発心をエネルギーに換えたのです。

為末 広島のスポーツの歴史について特に詳しい方ではないのですが、織田幹雄さんの存在はやはり大きいですね。

織田さんには「知」がありますよね。「インテリジェンス」ですね。アスリートにもいろんなタイプがいて、感性で押していく方もいる中で、織田幹雄さんのアスリート像は陸上界のほかのアスリート像とはちょっと違うと思うんです。

最初に陸上競技を科学した方です。ドイツ語で読まれた文献が残っているとか、英語で書かれた日記が残っているとかいろいろなことが言われていますよね。のちに朝日新聞の運動部長になられて引退後の人生でもある種、ロールモデル(規範行動の手本となる存在)になられた方です。

織田幹雄さんの「知」的戦いに学ぶ

―織田さんと為末さんは70以上、年が離れています。でも、織田さんが在籍した広島一中と為末さんの母校、皆実高校は距離にしてもそう離れていませんし、「市内5校」と呼ばれていた時代もあり兄弟校みたいな関係です。

さらに織田さんは広島一中では当時、広島最強のサッカー部で活躍。皆実のサッカー部も第87回全国高校サッカー選手権で、あの大迫勇也のいた鹿児島城西を倒し、全国の頂点に立ちました。

お二人の関係は遠いようでもあり近いようでもあり…。もっと言えば広島一中のスクールカラーの「紫」をそのままサンフレッチェ広島が引き継いでいて、いろいろなものが繋がっています。そして、どこも大きな相手に挑み続けています。

為末 そうですね、僕の母校もそう、サンフレッチェ広島もそしてカープもそうですよね。「大きな相手、巨人、何するものぞ」という、そんな空気と僕が経験したことは似た状況にあるわけです、世界に出ていくと…。

何となくですが、僕は上背がなくて、その競技の主流じゃない国から来て、みたいなところがあって、「戦力的にも厳しい」という中でそれじゃどうやったら勝てるか、という話なんです。でも、こういうストーリーって広島人に好まれますよね。サンフレッチェ広島は群雄割拠のJ1で2連覇しましたけど、まさに「戦力的に厳しい中でいかに勝ち上がるか」を地で行ったわけですからね。

―為末さんにお話しを聞いていると、すべての広島スポーツに通じるようで、「ひろスポ!」第1回インタビューにふさわしい内容満載となってきました。ありがとうございます。

為末 いえいえ、こちらこそありがとうございます。

 

為末大(ためすえ・だい)
1978年5月3日生まれ、広島市佐伯区五日市出身。五日市中学2年生で15歳の時に、100メートルジュニアオリンピック記録を更新。広島皆実高校2年時に100メートルで同級生に勝てなくなりハードルへの道を模索するようになる。法政大学に進学し、20歳の時に大学選手権400メートルハードルで優勝。22歳でシドニー五輪に出場するが予選敗退。大学に残り、23歳で挑んだ2001年世界陸上エドモントン大会で日本人選手トラック競技初のメダルとなる銅メダルを獲得。大阪ガスに就職するが、2004年にプロ選手に転向。翌2005年、世界陸上ヘルシンキ大会でも銅メダル。オリンピックも2004年アテネ、2008年北京と3大会連続で出場。「侍ハードラー」の呼び名で長らく日本陸上界をけん引し、2012年に34歳で引退。「諦める力」(プレジデント社)ほか著書多数。現在は株式会社侍で「為末大学」(http://tamesue.jp/)を主催。学校体育、社会体育などの場で「走ること」などを通じ、スポーツの普及・振興に務めている。ツイッターのフォロワー数が20万人を超えており、その発信力は常に注目されている。

2016年8月時点での最新情報

為末大学ランニング部がリニューア、『TRAC』へ 為末大学ランニング部として小学校生向けに開講していたかけっこ教室が『TRAC』に名称変更。「走るという行為を通じて、姿勢を覚え、自信を持ち、人生に核ができる。自分はできるんだという自信を持って生きていけることは、すべてによい影響を与えると私たちは信じています」(為末)

TRAC
trac.tokyo/

新刊『限界の正体-自分の見えない檻から抜け出す法』についてのインタビュー記事
cakes.mu/series/3719

『限界の正体-自分の見えない檻から抜け出す法』Amazon購入ページ
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「瞬間の興奮」の価値揺るがすドーピングwww.nikkansports.com/olympic/rio2016/column/tamesue/news/1695663.html

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なぜケニア人はあんなに速いのか
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日刊スポーツ連載中コラム www.nikkansports.com/olympic/rio2016/column/tamesue/

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