画像は、広島港宇品旅客ターミナルから望む似島
サンフレッチェ広島が初制覇に燃えるサッカー天皇杯。その歴史は古く5年後には第100回大会を迎える。
天皇杯の歴史は日本スポーツ界の歴史とも完全に重なり、そして広島スポーツ、広島サッカーの歴史とも重なっている。
サンフレッチェ広島、森保監督が天皇杯を手にした時、広島の歴史にまた新たな1ページが加わる。それは”復興都市”広島にとって、かけがえのない1ページでもある。
TOKYO 2020も含めて、例えば「紫色」ひとつを取っても、連綿と続く物語がある。なぜ、広島にとってサッカー文化がかげがえのない財産であるのか、歴史をひも解くことではっきりと見えてくる。
天皇杯の前身にあたるア式全国蹴球大会は1921年(大正10年)に始まった。その後、形を変えながら現在に至る。日本サッカー協会チーム登録種別の第1種登録があれば基本的に予選に参加可能なオープントーナメントだ。
プロ野球で広島や巨人と国内大学生チームや甲子園大会優勝の高校生チームが戦う公式戦は存在しないが、サッカーではプロとアマが真の日本一を争う。格上の敵を倒す”ジャイアントキリング”が可能でアマチュアチームにとっては大きなモチベーションになる。が、技術力、体力、精神力の差が大きいため深刻なケガの危険性がついて回る。
Jリーグ、JリーグYBCルヴァンカップ(旧・ヤマザキナビスコカップ)と並ぶ、日本の国内3大タイトルのひとつ。歴史は最も古い。このため、天皇杯優勝チームは来季のACLへ無条件で参戦できる。
天皇杯サッカーは第二次世界大戦などの影響で1926、34、41、42、43、44、47、48年の8度の開催中止がある。
1921年、初代優勝は東京蹴球団、準優勝は御影蹴球団(兵庫県)。当時の日本にはまだ企業スポーツ、プロスポーツの概念は当然、存在しない。
そんな中、広島で言えば1900年(明治30年)ごろ、広島中学(現国泰寺高校)、修道中学(現修道高校)、三次中学(現三次高校)、尾道商業などに相次いで野球部ができている。広島商業も1902年秋に野球部ができた。広陵中学(現広陵高校)の野球部は1913年(大正2年)に創設された。
1915年(大正4年)には夏の甲子園の前身である全国中等野球大会が始まった。
その3年後、1918年(大正7年)1月、大阪府の豊中グラウンドで大阪毎日新聞社主催の日本フットボール優勝大會が開催された。これが全国高校サッカー選手権大会(今年で95回目)の始まりである。
なお1896年(明治29年)に始まった近代オリンピックは1912年(大正元年)に第6回大会をストックホルム(スウェーデン)で開催、この時、初めて日本はオリンピックの大舞台を踏みスポーツでの国際デビューを果たす。ただし選手は陸上競技男子の2名。
その4大会あと、1928年(大正17年)のアムステルダムオリンピック(オランダ)で広島出身の織田幹雄が三段跳びで日本人初の金メダルに輝く。天皇杯の前身にあたるア式全国蹴球大会のスタートから7年後のことで、当時の日本がスポーツと正面から向かい合い始めている様子がうかがえる。
広島のサッカー界においてはこの頃、特筆すべきことも起きている。1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦の敗戦国、ドイツ軍の捕虜が広島湾沖の似島(現在は広島市南区)に収容された。このドイツ捕虜チームと広島高等師範、県師範(現在の広島大学に集約)のチームが1919年(大正8年)に交流試合を行い、これが広島で最初の国際試合と言われている。
似島に足繁く通った広島高等師範の田中敬孝は翌年、広島中学の教諭になり、サッカー部監督となり1912年(大正元年)頃から活動が活発になった広島中学を広島最強に育てた。そして修道中学,広島高師附属中(現広島大学附属高等学校)との熾烈なライバル争いを経て、やがて広島がサッカー王国と呼ばれるようになる。こうして広島で育った人材が関東、関西地方に散らばってゆき、日本サッカー協会設立(1921年)など幾多のサッカー振興へ汗することになる。
1894年、95年(明治27、28年)の日清戦争で、大本営が設置され、帝国議会(今の国会)も開催された広島は、首都機能を有する近代都市へと変貌し、しかも日露戦争、第一次世界大戦を経て軍都としての色彩を強めて行った。
「軍都」には優秀な人材が不可欠なため、1902(明治35)年には東京に次いで教員養成のための広島高等師範学校が開校した。国費を投じて軍都としてのインフラも整えられた。教育を受ける子どもの数も東京、福岡に続いて3番目の多さだったという。スポーツ王国広島の礎は、こうした社会的背景によって築かれた。
そしてドイツ軍捕虜との記念すべき交流試合から数えても、もうすぐ100年、ということになる。先ごろ移籍会見で佐藤寿人がしみじみと語ったサンフレッチェ広島のチームカラー、「紫」は広島中学のスクールカラーに由来する。
なお、このあとの天皇杯サッカーの優勝、準優勝チームの変遷を見ていくと、その時代背景も見えてくる。
サンフレッチェ広島の前身、東洋工業・マツダSCは、大学サッカー隆盛期の1960年代半ばにその頂点に立ち、その後はヤンマー、さらには以下の年表には名前がないが、古河電工、フジタ工業、日立製作所などの社会人チームと長らく覇権争いを演じ、Jリーグ誕生の時を迎える。
天皇杯サッカー、広島を”ホーム”とするチームの優勝、準優勝などと関連スポーツの動き
1921年(大正10年)天皇杯サッカースタート、優勝・東京蹴球団、準優勝・御影蹴球団
1922年(大正11年)第2回、準優勝・広島高等師範、優勝・名古屋蹴球団
1924年(大正13年)第4回、優勝・広島鯉城クラブ(広島中学OB)
1925年(大正14年)第5回、優勝・鯉城蹴球団(同)
1927年(昭和2年)第7回、準優勝・鯉城クラブ(同)、優勝・神戸一中クラブ
1930年(昭和5年)第10回、準優勝・慶応BRB、優勝・関学クラブ
※1931年(昭和6年)満州事変、1933年日本は国際連盟を脱退、1937年日中戦争勃発、1940年日独伊三国同盟、1941年開戦
1940年第20回、優勝・早大WMW、準優勝・慶応BRB
※1945年(昭和20年)終戦、第二次世界大戦のため1941年21回大会から1945年25回大会は開催されず、また1947年、48年の27回、28回大会も世情不安定のため開催されず。
1949年(昭和24年)29回、優勝・東大LB、準優勝・関大クラブ
1954年(昭和29年)第34回、準優勝・東洋工業、優勝・慶応BRB
1957年(昭和32年)第37回、準優勝・東洋工業、優勝・中大クラブ
※1964年(昭和38年)東京オリンピック開催、
1965年(昭和40年)第45回、優勝・東洋工業
1966年(昭和41年)第46回、準優勝・東洋工業、優勝・早稲田大学
1967年(昭和42年)第47回、優勝。東洋工業
※1968年(昭和43年)メキシコオリンピック、サッカーで銅メダル。長沼健監督以下、小城得達、松本育夫、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、森孝慈の6選手が広島勢だった。
1969年(昭和44年)第49回、優勝・東洋工業
1970年(昭和45年)第50回、準優勝・東洋工業、優勝・ヤンマー
※1975年(昭和50年)、広島東洋カープ初優勝
1978年(昭和53年)第58回、準優勝・東洋工業、優勝・三菱重工
1987年(昭和62年)第67回、準優勝、マツダSC(東洋工業から改称)、優勝・読売クラブ
※1991年(平成3年)、広島東洋カープ、山本浩二監督のもと6度目のリーグ優勝、旧広島市民球場に替わる新球場建設の声高まる
※1992年(平成4年)Jリーグ誕生、サッカースタジアム建設の声高まる
1992年第72回、優勝・日産FC横浜マリノス、準優勝・読売ヴェルディ
※1994年(平成6年)広島アジア大会開催
1995年(平成7年)75回、準優勝・サンフレッチェ広島、優勝・名古屋グランパスエイト
1996年(平成8年)76回、準優勝・サンフレッチェ広島、優勝・ヴェルディ川崎
1999年(平成11年)79回、準優勝・サンフレッチェ広島、優勝・名古屋グランパスエイト
2007年(平成19年)87回、準優勝・サンフレッチェ広島、優勝・鹿島アントラーズ
※2009年(平成21年)マツダスタジアム完成
※2012年、2013年サンフレッチェ広島J1連覇
2013年(平成25年)93回、準優勝・サンフレッチェ広島、優勝・横浜F・マリノス
広島新サッカースタジアム取材班
この記事は福山平成大学、「広島スポーツ学」講義資料より引用しました。
福山平成大学オフィシャルサイト
www.heisei-u.ac.jp/
広島スポーツ学講義
福山平成大学キャンパス