ノックを受ける石原慶、その後ろに(画像左から)石原貴、中村奨、曾澤、坂倉
広島東洋カープは10月12日、石原慶幸の現役引退を発表した。16日に引退会見があり、11月7日にマツダスタジアムである阪神戦が引退試合になる。
今年は球団70周年。その最大の出来事は1975年のリーグ初優勝だが、旧広島市民球場時代の終わりとマツダスタジアム新時代を繋ぐ10数年間はそれに次ぐエピソードの連続で、その橋渡し役となった中心選手が、これで”全員”現役を終えることになる。
石原慶幸がスタメンマスクをかぶって活躍し始めたのは2003年。「主砲金本」が阪神にFA移籍して、チームが新たな道を探ろうとしていた時期だ。この年、「新四番」に挑んだ新井貴浩は山本浩二監督の期待に応えきれず悪戦苦闘した。
同時に「エース佐々岡」はシーズン途中から抑えに回り、一方で黒田博樹が205回と3分の2を投げて13勝。
翌2004年、石原慶幸が135試合に出場したシーズンは球界再編問題が勃発、広島球団は存続の危機に直面した。
交流戦が始まった2005年はチーム最下位でも、新井貴浩本塁打王、黒田博樹最多勝利投手。
2006年には山本浩二監督からマーティ・ブラウン監督にバントが渡され、2007年オフ、黒田博樹と新井貴浩が同時に広島を去って行った。苦楽を共にしてきた石原慶幸はけっきょく二人の背中を見送り”広島一筋”の道を歩んでいく。
2008年は旧広島市民球場ラストイヤー、石原慶幸はキャリアハイの50打点マーク。
2009年、マツダスタジアム元年も石原慶幸は扇の要としてチームを引っ張り、野村謙二郎監督の下ではちょうど7年前の2013年10月12日、球団史上初となるクライマックスシリーズ・ファーストステージ(甲子園)でスタメンマスクをかぶりマエケンをリードした。
2014年オフの緒方孝市監督就任は、同時に黒田博樹と新井貴浩の広島復帰という奇跡をもたらした。ふたりを出迎えた石原慶幸は2016年、25年ぶりのリーグ優勝の瞬間を東京ドームの同じ空間でその目に焼き付け、そして日本シリーズでの死闘も共に経験した。
黒田博樹に続いてリーグ3連覇を果たした新井貴浩も引退。”ひとり”になった石原慶幸は佐々岡監督の下で19年目の今季も開幕一軍に名を連ねた。しかし坂倉将吾の台頭もあり、出番は激減。同時に”相棒”のK・ジョンソンも極度の不振に陥った。
8月27日のDeNA戦(横浜スタジアム)。久々のスタメンマスクをかぶった石原慶幸は五回、先頭打者で遊ゴロを放ち全力疾走して左ハムストリングスに深い傷を負った。K・ジョンソンが2点を失い逆転された直後のアクシデントだった。
登録抹消となる中で9月7日、41歳の誕生日。それからおよそ1カ月で引退の決意が固まったことになる。黒田博樹、新井貴浩と同年齢で現役生活に別れを告げる。それはいつかまた3人が揃ってグラウンドに立つ日への第1歩…(ひろスポ!・田辺一球)