備前喜夫さんの尽力により全国から集まってきた選手たちは、旧広島市民球場時代にも多くのファンの心をつかんだ
広島のスカウト部長を務めた備前(旧姓・太田垣)喜夫さんが9月7日、午前に肺炎のために亡くなった。球団が8日発表した。81歳。
告別式は9日午前10時から広島市西区庚午北1丁目14の20、サンセルモ玉泉院庚午会館で。喪主は妻・由貴子さん。葬儀は9日、家族葬として近親者で営む。
備前さんは尾道西(現・尾道商)から1952年、広島に入団。その年の開幕戦(松竹戦)で高卒新人開幕投手となり、初勝利をあげた。
1953年から5年連続二桁勝利。実働11年、通算446試合に登板して115勝149敗、防御率2・96。
引退後は二軍監督などを務め1977年スカウトに転身。1987年からスカウト部長としてチーム補強の最前線に立ち、前田智徳、佐々岡真司らを獲得して今のチームの骨格を築き上げ2002年に引退した。
物腰の柔らかい穏やかな口調で選手、関係者報道陣に接し、チームに対する愛情あふれる姿勢はいつまでも変わらなかった。
また、歴史の中に若干、埋もれた感はあるが、ルーキーイヤーの備前さんの活躍がなければ、今の広島の隆盛はなかった可能性が高い。
1952年の数字は43試合に登板、先発23試合で7勝17敗。
この年、球団創設3年目の広島の最終成績は37勝80敗3分け、勝率3割1分6厘。
実は1952年の開幕前に、同年シーズンで勝率3割を切った球団は「合併」する、と決められた。1950年、プロ野球再編でセ・リーグは8チームに翌1951年には7チームになっていた。
奇数による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理統合…。実質的には設立より2年連続最下位だった広島つぶしの取り決めだった、と言われている。
結果的には34勝84敗、勝率2割8分8厘でシーズンを終えた松竹ロビンスが大洋ホエールズとの合併を受け入れた。
松竹と広島の勝ち数の差はわずかに3勝…。もしも高卒ルーキー右腕がうなりをあげていなかったら、合併消滅したのは広島…。
1950年1月にチーム結成式を執り行った広島は球団創設から今年で65年。初の入場者200万人突破も確実視され、なくてはならない存在となった広島の今の姿は、広島ひとすじ50年だった備前さんの目にはどのように映っていたのだろうか?
ひろスポ!「広島スポーツ100年」取材班
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