画像は竹原ナインと迫田穆成さん
怪物、江川卓を1973年のセンバツ準決勝で攻略、指導者として広島商と如水館を春夏14度甲子園に導いた迫田穆成(さこた・よしあき)さんが12月1日朝、亡くなった。84歳だった。
1939年7月3日、広島生まれの迫田穆成さんは、家族で避難するなど被爆を経験した。
実家そばの太田川河川敷で大人たちと野球に親しみ、広島商では主将として1957年の夏の甲子園で頂点に立った。
指導者としても広島高校野球界を引っ張った。広島商の4回目と5回目の全国制覇を選手と監督の両方で経験した。
2018年10月に父兄らが反対の声を上げる中、如水館高校の監督を退かざるを得なくなると、持て余す情熱を新たな舞台に注ぐため、翌19年夏の広島大会後に部員9人確保がやっとという竹原高校監督に就任した。
迫田穆成さんの指導に憧れ、集まってくる選手が増え、地元関係者も寮を開設するなどしてその背中を後押し。コロナ禍の20年を乗り越え、22年夏の広島大会ではベスト16入りを果たした。
今夏の広島大会では2回戦で“古巣”如水館と竹原監督就任以来、初めて対戦。無念の敗戦となったが、今秋の広島南部地区1年生大会トーナメント決勝で海田にコールド勝ちした。
ただ1年生大会のベンチには入らず体調管理を優先、しかしその後も「原因不明の体調不良」は良化せず「県内ベスト4の力が今の1年生が成長するころ、あと2、3年で甲子園へ」との大いなる夢を果たせないまま帰らぬ人となった。葬儀の詳細などはのちに発表される。(ひろスポ!広島スポーツ100年取材班)