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2023年12月04日
編集部

迫田穆成さんの葬儀・告別式で教え子たち、関係者が別れを告げる

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迫田穆成
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画像は、第105回全国高校野球選手権記念大会広島大会2回戦(7月14日、エブリィ福山市民球場)で如水館に”挑む”迫田穆成監督

 

広島商、如水館、竹原で高校野球とともに生き12月1日に84歳で監督の肩書のまま亡くなった迫田穆成さんの葬儀・告別式が4日、竹原市の長善寺で営まれた。

 

仮に1学年20人だとしてもその教え子の数は膨大なものになる。

 

この日は関係者らも含めておよそ300人が名将との別れを惜しんだ。出棺に際しては高校野球大会歌の「栄冠は君に輝く」が流された。

 

ひろスポ!は、迫田穆成さんの竹原市“移住”後の「甲子園」の夢を記事に書き溜めてきた。

 

お別れと感謝の言葉とともに、最後の記事をアップする。

 

 

※この記事は田辺一球|noteを引用しています。

 

 

 

カープダイアリー第8451話「”野球がなければ死んでしまう”カープ球団史よりも長い広島野球の歴史継承者、迫田マジック永遠に」(2023年12月1日)

午前9時過ぎ、メディア関係者の携帯に、かつて如水館高校でコーチを務めていた人物からの電話が入った。その関係者はすぐに事態を理解したと言いう。そのコーチと最後に電話連絡したのがおよそ4年前だったから、だ。

「迫田監督が今朝、お亡くなりになりました」

「やはり、そうでしたか」

「え?ご存じだったんですか…」

「はい、11月中旬に電話で話をさせていただいた時、どうもおかしいとご本人から聞きましたから、原因不明だけど立っているのもしんどいと言われていましたから…」

「そうでしたか…」

コーチからの電話は地元放送局、新聞関係者にもあった。午前10時前後から中国放送、中国新聞などが次々に迫田穆成さんの訃報を伝えた。

広島の高校野球界の先頭に長らく立ち続け、「広商野球」や「如水館の迫田」、「迫田兄弟」で全国に知れ渡り「野球がなければ死んでしまう」が口癖だった名将は「もう一度、甲子園へ」の夢を胸にしたままユニホームに袖を通すことをやめた。84歳で、だ。

今年は戦後78年。原爆が投下された時、迫田さんは6歳。広島が戦後70年目の夏を迎えた時に76歳だった迫田さんはその思い出を語った。

「私が現役の時には(広島商で)甲子園に行って(1957年、第39回全国高校野球選手権大会で主将としてチームをまとめ)優勝して、当時はまだカープが弱かった頃ですから、街が大騒動になったんです。その年の夏に、私たちが高校3年の時にちょうど広島市民球場も完成しました。(同年7月24日が球場開きで)私たちはその夏にはまだ使えませんでしたから、11月の広陵との定期戦で初めて市民球場を使わせてもらいました。よく覚えております。お客さんもたくさん来られて利益が500万円ぐらいあったんではないでしょうか?だから市民球場は我々にとってはすごく愛着がありますね」

「その時、一緒にプレーした仲間には一番を打っておったんですがケロイドをやっている者もいました。当時のマスコミにも取り上げられました。私の周りで言えば小学4年の時と中学2年の時に同級生が原爆症で亡くなっています。葬儀に行くと、お前らもそこらが出るかもしれないから注意しなさい、と言われ“そんなこと言われても…、わしらも原爆症で死ぬるんかな…”というようなこともあったんです」

「弟がいたのですが原爆で亡くしました。2才でした。ちょうど病気で(今の西区)己斐の家で寝ておったんです。私もその時にはまだ幼稚園ですから家におりましたが、すぐに親戚のおばちゃんが来てふとんをかぶって、すぐ下の弟と山に逃げました。それから夜になって、佐伯郡の方からおじさんが二人来て、自転車に乗せられて廿日市の奥の下河内というところへ向かいました」

「おやじは大八車を引いて、おふくろは今の新庄のやつ(新庄→福山監督)がお腹におったんでそれに乗せられて…。それで急に動かした、ということで7日に2才の弟は息を引き取りました。大した病気じゃない、と聞かされておったんですけどね」

「おやじも69で亡くなりましたが、兄弟はみな80を出ていますから、やっぱり勤労奉仕で街に出ておって毒を吸ったのが影響しているのではないでしょうか?市役所の前あたりで家を壊しておって、ちょうどトイレの中に入っていたんだそうです。だから狭くて頑丈で助かったんですね。36人が行かれて、帰ってきたのはふたりだけでした」

「9つ上の姉も街中の女学院に行っておったんで、これもまたおらん、いうことになって毎日、おやじが探しに出て、続けて毒を吸った形になったんでしょう。おやじは30代で総入れ歯になりました。頭髪も抜けて…。それが69まで生かしてもらいましたから、それはすごくありがたいことなんですけどね」

迫田さんは戦後の混乱期を野球とともに過ごした。被爆翌年、己斐小学校1年生時に学校のグラウンドで野球と出会う。実家近くの太田川の河川敷でも大人に混じってプレー。褒めてもらえるのが嬉しかった。

中学時代には「日独青年交換会」の国内メンバー8人に選抜され、1カ月間西ドイツに短期留学した。

1955年、前年に再編されたばかりの広島県広島商業高等学校に進学。2年時には主に「八番レフト」で春夏連続の甲子園出場。翌1957年の第39回選手権大会では、主将としてチームをまとめ「広商4度目の夏制覇」を成し遂げた。

卒業後は家業の洋服店後継者として働く傍ら、社会人野球、高校野球の審判などを務める。野球との関わりが続く中、1966年に広商からの要請を受けコーチに就任、翌1967年秋、監督就任。1969年、第41回センバツでは早々と甲子園ベスト8。

さらに1973年、第45回センバツでは、佃正樹、達川光男のバッテリー、金光興二、川本幸生、楠原基らを擁し、「怪物、江川卓」を攻略して準優勝。金属バットの使用が最後となった同年夏の甲子園決勝、静岡高校戦では相手のスクイズを見破り、九回一死満塁からはスリーバントスクイズで「広商5度目の夏制覇」を成し遂げた。この大会、広島商のスクイズはすべて2ストライクからだった。

迫田マジック…

翌1974年夏も甲子園へ。しかし準決勝で習志野高校エースの小川淳司(現東京ヤクルトスワローズGM)を攻略しきれず敗退。その責任をとる形で監督を辞任した。

その後は、他県の高校のコーチ等を務めたあと、1993年に如水館高校の前身、三原工業高校野球部の監督に就任。1997年夏、春夏通じて同校初となる甲子園出場を果たす。以来、夏6度、春も1度甲子園へ。2011年の第93回選手権では初戦から3試合連続延長戦勝ちを収めて、甲子園ベスト8に進出した。

だが2018年の秋には如水館高校側の“思惑”により、父兄らの反対の声は押し切られる形で監督辞任が発表された。翌2019年3月、如水館ナインに「広島大会、甲子園で勝てよ、そうしたらお前らの感謝を受け取ってやる」との言葉を残し、一度は高校野球界に別れを告げたのである。

 

 

 

カープダイアリー第8452話「”野球がなければ死んでしまう”カープ球団史よりも長い広島野球の歴史継承者、迫田マジック永遠にⅡ」(2023年12月2日)

 

カープOBによる総会と懇親会が広島市中区のホテルであった。懇親会では6月に65歳で亡くなった北別府学さんに黙とうが捧げられた。

2年前の12月、大野豊さんがOB会長のバトンを引き継ぎ、長らく会長職にあった安仁屋宗八さんは名誉会長になった。

トップが11歳若返ったことで、それまでOB会と疎遠になっていた世代が集まってくるようになった。そんなタイミングで新井体制が誕生した。

おそらく大野体制も10年前後は続くだろう。新井監督もその流れに続くはずで長期政権になる。

「今シーズン、若手がいい経験を積んだ。来年は新井監督の下で元気のいいチームを作り、ぜひ阪神の連覇を阻止して欲しい」

大野会長からOB会に出席した新井監督への激励の言葉、だ。

会には大野会長と一番近い関係にある達川光男さんも参加した。12月は何かと気ぜわしいが、様々な出会いがある時期でもある。

だが北別府学さんに改めて別れを告げる日となったと同時に、その気持ちはさらに沈んだものになったかもしれない。あす日曜日には竹原市内で迫田穆成さんの通夜が、明後日には葬儀・告別式がある。

達川光男さんの原点は「広商野球」。このところ問題報道の続く大阪・関西万博の昭和版は「1970年のこんにちは」の大阪万博(昭和45年開催)だが、その1年後の1971年、広島商に進学した達川光男さんは迫田穆成監督に鍛えられた。

はっきり言って軍隊式。その厳しい練習と厳粛な生活態度によってグラウンドに撒かれた種はやがて芽吹き、花開き、実をつける。1973年の第45回センバツ大会準決勝。対戦相手は作新学院(栃木)エース江川卓。初戦から19個、10個(7イニング)、20個の三振を奪い「怪物」と称されていた剛腕だ。

五回に先制され、その裏、ポテンヒットで同点に追いついた。「怪物」の連続無失点記録を139イニングで止めたのである。

さらに同点で迎えた八回にはダブルスチールで捕手の悪送球を呼び込み決勝点。8つの四球を選ぶなど打つこと以外で江川攻略を成功させた。

決勝では横浜高(神奈川)に延長戦の末に敗れたが、その夏、第55回全国選手権大会では「サヨナラスクイズ」で頂点に立った。迫田穆成さんはこの年33歳~34歳だった。今からちょうど50年前の出来事だ。

1999年と2000年2月のカープ沖縄キャンプ。達川監督の下での練習の様子を見学するために迫田穆成さんは足を運んでいる。

逆に達川光男さんが迫田穆成監督の下を訪ねたこともある。

2021年4月の竹原高校グラウンド。今榮敏彦竹原市長ら地元の関係者や父兄らも見守る中で忠海高校との合同野球教室が開催された。その模様を竹原市と江田島市で活動する少年野球チームの小・中学生が見学した。将来、野球を続けたくて竹原高校を受験する子供たちが増えるように、だ。

「竹原高校は数年で甲子園に出ることができるようになる!中学生のみなさん!竹原高校野球部に入ろうと思うとる人は手を挙げて」(達川光男さん)

如水館監督を退任した迫田穆成さんは2019年4月に竹原市内に転居した。竹原市の人口はここ20年で1万人前後も現象したと聞き、危機感を持ったという。

その夏の広島大会終了後、竹原高監督に就任した。3年生が抜けて新チーム部員数は10。それでも「甲子園」への道は必ず開けると信じての再スタートだった。

「竹原の街への恩返しもしたいし、野球を通じて活性化できる部分は大きいと思います」

そして事実、2年後の2022年夏の広島大会では堂々のベスト16という成果を残したのである。

 

 

 

カープダイアリー第8453話「”野球がなければ死んでしまう”カープ球団史よりも長い広島野球の歴史継承者、迫田マジック永遠にⅢ」(2023年12月3日)

 

広島県沿岸部のほぼ中央に位置する竹原市。2000年に82歳で亡くなった大林亘彦監督の映画「時をかける少女」は竹原市本町の街並み保存地区で多くの撮影が行われた。

竹原に映画ツーリズムの風を呼び込んだ名作で、地元の人たちは今もその思い出を大切にしているという。

竹原は平成になって「訪れてみたい日本のアニメ聖地」としても知られるようになった。竹原を主な舞台にしたアニメ「たまゆら」は写真が大好きな女子高生、沢渡 楓(さわたり・ふう)と、彼女を取り巻く人たちの日常を描いた作品。…たまゆら(玉響)は、勾玉(まがたま)同士が触れ合って、たてる微かな音のこと、転じて、ほんのしばらくの間という意味、だ。

しかし、県内市町の大半が人口減少に頭を痛める中、竹原もご多分に漏れず空き店舗が目立つ。迫田穆成さんがそんな街の住民になったのは、保護者ら8000人にも及ぶ“監督続投”署名活動も及ばす如水館(竹原に隣接する三原市)に別れを告げてから1カ月後の、2019年4月のことだった。

ほどなく竹原高校での監督話が出始めた。6月半ば、初めて竹高グラウンドに足を運んだ迫田穆成さんは、11名しかいない部員の前でこう切り出した。

「無死一塁で打球が三遊間へ飛んで、ゲッツーコース…。サードからセカンドへ投げたらセーフになった。どちらが悪い?」

ひとりだけ「サード」と答え「セカンドカバーが遅れた」が多数派だった。が、正解は「悪いのはサード」…

「野球は思いやりのスポーツ、ボールを持っている側に主導権があるということをまずはよく理解してからプレーして欲しい」「そして大事なことは一生懸命に動くこと」

そして、こうつけ加えた。

「あすからは自分たちで考えるようにして欲しい」

その1カ月後に迫田穆成さんは80歳になり、夏の広島大会終了後には監督になった。と同時に目標は「4、5年で県ベスト4」に据えた。

ベスト4とベスト8では、意味合いがまったく異なる。甲子園に行くにはベスト4、でないとダメ。

誰が見ても県大会1回戦ボーイだった竹原は、2020年のコロナ禍による「特別な夏」を乗り越え、2022年夏の県大会でベスト16入りを果たした。

強さの源は迫田野球に惹かれて集まってきた新たな人材。街の商店街の一角に地元住民の手で「雄光寮」が作られ、広島市内などから選手が集まるようになり「自分たちで考える力」を着実に身に着けたチームの姿は、各ポジションでの構えひとつとっても、以前とは比べ物にならないほどのレベルに達していた。

広島商監督時代から再三メディアに「スクイズで…」とか「重盗、奇襲…」とか「迫田マジック」とか書かれてきた迫田穆成さんだが、それは本質ではない。

1973年の「怪物江川攻略」と「2ストライクからの決勝スクイズでの夏の甲子園制覇」は語り草だが、その年の佃-達川バッテリーほか3年生部員は10数人しかいなかった。そして、それぞれが訓えに従い自ら考えてプレーする力量を身に着けていた。

当時、練習試合でエラーした選手は迫田穆成監督の隣でずっと正座させられていた。狙いはその場でなぜ自分がミスをしたかを考えるため、だった。

だから最後に投げかけられる言葉は「なぜか、自分で気が付いたか?」だった。

広島商時代の迫田穆成さんは練習中にグラウンドに姿を見せないこともあった。嘘か本当かは確認できていないが、練習中にOBと雀卓を囲んでいた、という話もある。

考える野球は「上級生が下級生を指導すること」でより深みを増す。だから迫田穆成さんは竹原”移住“後も公式戦で下級生起用のタイミングに拘った。

監督就任4年目、今夏の広島大会、7月14日のエブリィ福山市民球場。初めて古巣・如水館との対戦となった2回戦は1対8で完敗した。序盤3回で1対3。さらに5点差を追いかける五回、一死満塁のチャンスで四番がホームゲッツーに倒れた。対する如水館、県外からの選手が多数を占める打線は強力で四番がホームランをかっ飛ばした。

ただ、竹原のスタメン9人中7人は2年生、残るふたりは1年生だった。

それから2カ月半が経ち、竹原は秋季中国大会と同じ時期に開催された南部地区1年生大会トーナメントで優勝した。10月28日の話だ。

この大会前に体調不良を感じていた迫田穆成さんはベンチには入らず、天野耕平副部長が指揮を執った。

「今大会は呉港さん、市立呉さんが参加されておられないので、優勝と言っても…、ただ4試合で失点は1、1、0、2ですからそこは選手がよくやってくれたと思います」

迫田穆成さんはおそらく竹原史上最強の1年生たちに手ごたえを感じていたはずだ。

だが迫田穆成さんは、竹原での“大勝負”となるはずの5回目の夏を迎えることはなかった。

この日、竹原市内の長善寺であった通夜には数えきれないほどの教え子たちや関係者が焼香のために集まってきた。周囲の遊休地や学校のグラウンドは車でいっぱいになった。

受付そばの広場で整列した竹高ナインは制服姿で無言のまま、微動だにせず夕暮れの中の弔問客を見つめていた。

迫田穆成さんの「もう一度甲子園へ」の夢はたまゆら、で終わるのか?

4年半の間に竹原の街に新たな風が吹くようになり、学校関係者、父兄、自治体関係者らはその思いに同調して自ら汗をかいてきた。

何かひたむきに向き合うものを自分たちで創造していくことで新たな世界、新たな価値が見えてくる。

街並み保存の街、映画の街、アニメの街。様々な表情を見せる「安芸の小京都」に響く打球音や選手たちの大きな声。

自分たちで考える力を大事にする竹原ナインは来夏の広島大会で、迫田穆成さんとともにグラウンドに立つ。「野球は思いやりのスポーツ」の言葉を胸に刻んで…

 

 

 

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