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2016年01月26日
編集部

U-23日本リオ五輪出場決定、ドーハの悲劇から22年、森保一から浅野拓磨へ

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U-23日本代表がイラクを2-1で倒しリオデジャネイロ五輪出場を決めた。五輪出場は6大会連続。

1月26日、カタール、ドーハのアブドゥッラー・ビン・ハリーファ・スタジアムで行われたAFCU-23選手権準決勝、日本は前半26分に久保裕也(スイス・ヤングボーイズ)が絶妙のタイミングでゴール前に詰めて伸ばしてた右足で先制弾。

しかし43分、187センチのDFスアド・ナティク・ナジにヘディングシュートを放たれ、一度はGK櫛引政敏(清水エスパルス)が弾き返すも再び頭で押し込まれ同点とされた。

Jリーグ創設の頃を知る者なら誰もが頭に思い描く「ドーハの悲劇」。相手はやはりイラク。1993年10月28日。2-1リードで「ロスタイム」を迎えた日本は最後の最後で相手にまさかのショートコーナーを上げられ、次の瞬間、オムラル・サルマンのヘディングシュートがスロービデオのようにゴールへと吸い込まれていった。

あと数10秒、いや10数秒耐えていれば悲願の「日本ワールドカップ初出場」の速報が流れるはずだった。次々に日本の選手がピッチに倒れ込む映像は若い世代でも目にしたことがあるはずだ。

イラクは引き分けでは米国W杯に手が届かず、それでもすさまじい執念で追いついてきた。3-0で北朝鮮に勝った韓国に得失点差で届かなかった日本は3位の座を韓国に譲り、W杯切符なし、手ぶらでの帰国となった。

その夜、ホテルで開催された表彰式を日本代表は欠席した。当時の川淵チェアマンが代表してフェアプレー賞のトロフィーを受け取った。

だが、その背中は小さくなっていた。この年Jリーグが本格的にスタート。当時の日本サッカー界は「3種の神器」を揃えて「大改革」を成功させようと目論んでいた。

その3つとは「サッカーくじ導入」「2002年W杯日本招致」そして日本中の目をサッカーに向けることができる「1994年米国W杯出場」だった。

2002年にも繋がる野望は、まだ周辺に砂漠が延々と広がるアル・アリ競技場で霧散した。

翌朝、現地の英字新聞の一面には日本代表サポーターの女性が大きく掲載され「Tears for fears」の大見出し。なかなかシャレが効いている。1980年代にヒット曲を立て続けに世に送り出したイギリスの2人組のバンド名でもある。そして、直訳すれば「恐れのための涙」。「心の痛みを仕舞い込まないで、子供のように声に出して泣いてもかまわない」という気持ちも込められている。

どれほどの声を出して泣いたかは、ピッチとスタンドに距離があり定かではない。しかし中山雅史も北沢豪もラモス瑠偉もみな打ちひしがれていた。その中に森保一もいた。この試合、警告明けでスタメンに戻っていた。あのショートコーナーも目の前を通過していった。

日本に帰る専用チャーター機の中で、オフト監督は報道陣と談笑したり自著にサインしたりしていた。だが三浦知良はまだショックを引きずっていた。横に座った記者がこんな言葉をかけていた。

「1年後、10月には広島でアジア大会があるので、またそこで頂点を目指しましょう…」

これらすべてをひっくるめて、あの時、あの試合を経験したすべての人々の心に、今も「ドーハの悲劇」の言葉によって増幅され、染みついている。今回、現地で中継の解説を担当した中山氏らは特にそうだろう。

むろん国内に残る「ドーハ組」もかつての「悲劇」と向き合いながら、若い世代の奮闘を応援したことだろう。

鹿児島で合宿中のサンフレッチェ広島、森保監督も含まれている。「4年で3度のJ1王者」。そのにわかに信じがたい功績の根っこの部分にもおそらく「ドーハ」があるはずだ。

その森保監督の目に、後半33分、久保に代わってピッチに立った浅野拓磨の姿はどう映っていただろう?

試合は1-1のまま”また”今夜もアディショナルタイムへ。そして残りが”また”数十秒となったところで右サイドの高い位置でボールを持った浅野がペナルティエリア内へと切り込み、素早く南野拓実(オーストリア・ザルツブルク)につなぐ。南野はファーへのクロスを狙ったが、これを相手GKのファハド・タリブ・ラヒムがパンチング…。そこに原川力(京都サンガF.C.)。巧みなボールコントロールから左足で放った一撃は、”今回”は弾丸ライナーでゴール右へ突き刺さった。

Tears for pures

これは造語だ。だが、浅野は昨年のリーグ戦やガンバ大阪とのチャンピオンシップ、そしてクラブワールドカップと同じように「点を取りたいけどそれよりまずチームの勝利」を純粋に考えてあの場面、あの動きを選択した。

あそこで浅野が止められていれば、勝ち越しゴールは延長勝負へと持ち越され、もしかしたらPK戦へとなだれ込み「再びカタールの悲劇」というエンディングも考えられた。

「カタールの悲劇」から20年以上が経ち、日本サッカーは飛躍的な進歩を遂げ、今はフル代表も年代別代表も停滞期に入っている。

ならば、またどこかのタイミングで加速することが必要になる。まずはアジアナンバーワンの称号を目指して、あと1勝。

だが、喜びの涙はまだずっと先の話である。

新サッカースタジアム取材班(日本サッカーの実情を20年以上追いかけ続けています)

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