広島護国神社の目の前にある、中国軍管区司令部 防空作戦室について書かれている
太平洋戦争の災いの中に数え切れぬ命を引き込んだ真珠湾攻撃と、広島のスタジアムには密接な関係がある。
そのことを、未来を背負う世代がどれだけ理解しているか?
日本軍による真珠湾攻撃から78年を迎えた12月7日朝(日本時間8日未明)、米軍などがハワイ州真珠湾に面した公園で追悼式典を開いた。広島もその歴史の記憶を引き継いでいかねばならない。
サンフレッチェ広島のJリーグスタート時の記念すべきホーム開幕戦は、広島市西区にある広島県総合グラウンド陸上競技場、当時、広島スタジアムと呼ばれた場所で開催された。
この競技場施設は広島県の「皇紀2600年記念事業」として進められ、1941年12月7日に完工式があった。
野球場、庭球場、相撲場、弓道場もある施設群は「総合体錬場」の名で完成した。7日、8日、9日の3日間で記念の体育大会があった。その2日目、修道中学(現修道高校)と広島一中(現国泰寺高校)の対戦の最中に、ラジオスピーカーが日本の米英への宣戦布告を告げた。78年前、同じ広島のマチナカで現実にあった話、である。
軍艦マーチとともに「帝国陸海軍は本8日、西太平洋において米英両軍と戦闘状態に入れり」のアナウンスが繰り返されたという。会場は異様な空気に包まれた、と資料には記してある。一般市民は誰も戦争など望んでいない。
広島は明治の終わりから、大正、昭和初期にかけてスポーツ王国と言われた。
温暖な気候、国内有数の子どもの数と優秀な指導者の存在、軍都廣島への国費による投資並びに軍組織とのスポーツ交流が、広島のスポーツを国内最強にした。と同時に広島アスリートは世界に挑んだ。
1928年(昭和3年)のアムステルダム五輪で日本人初の金メダルに輝いた広島生まれの織田幹雄、その時の三段跳び優勝記録15m21を記念した「織田幹雄記念ポール」は今もエディオンスタジアム広島のバックスタンド側に立つ。
その織田も総合体錬場の記念大会に呼ばれていた。
「体錬」。
日本の学校体育は、国策によって軍事色をどんどん強めて行った。広島がスポーツ王国になっていく過程は、その歴史に完全にシンクロしていた。
かつては旧広島市民球場の西側にあった広島護国神社。真珠湾攻撃から2日後の12月10日には、神社前の広場で「対米英宣戦必勝広島国民大会」が開催され7万人が集まったという。いったいどんな気持ちで”群衆”はそこに集ったのか…
屍の街…全てはその4年後の1945年8月6日に灰と瓦礫になった。被爆後、広島護国神社は広島城内に移った。
8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾によって地獄と化した焦土にあって、軍事用電話により「広島は全滅です」との第一声を女学生が発信した。そこは中国軍管区司令部防空作戦室。今も保存されるこの施設は広島護国神社の目の前にある。
広島が新たにサッカースタジアムを建設しようとしている中央公園は、中国軍管区司令部 防空作戦室跡から徒歩10分圏内にある。
中央公園はすでに知られているとおり、戦後広島の復興の象徴的存在のひとつとなった「平和の軸線」によって、その意味を特別なものにしている。
被爆当時には原爆製造計画「マンハッタン計画」に携わったハロルド・ジェイコブソン博士から「75年草木も生えぬ」と言われた広島は、来年、その75年目を迎える。
中央公園に生まれる新たな広島の舞台装置は、サッカースタジアムであると同時に、原爆ドームや平和公園ととともに世界平和を発信し続ける空間となる。
そのためには平和コンサートや平和のための文化的イベントも開催されることになるだろう。
そして2度の東京のあとまた日本でオリンピックがあるとするならば、それは広島。それが「平和の軸線」の意味するところと重なった時、中央公園とその北側に広がる今の県営アパート群跡地も含めた広大なエリアが新たな役割を持つようになる。
新サッカースタジアムの規模をどうするか?
正解は3万、4万、5万とスケールアップできるように、最初から考えて仕込みをし、レイアウトしておく、だろう。
ひろスタ!特命取材班(記事は福山平成大学で開講中の「広島スポーツ学」から引用)
ひろスポ!関連記事
緊急連載、広島の新サッカースタジアムキャパ3万人?50年先見据え4万人規模必要でしょ!(13)現状ではA代表は来ない、FIFAピースマッチどうする?何のための「平和の軸線」上スタジアム?(2019年11月6日掲載)
hirospo.com/pickup/61600.html