画像は広島空港で東京便に乗り込む川辺駿選手
川辺駿選手、スーパーリーグ経由で必ず森保一監督最終決戦の地「ドーハ」へ、「上に行けば行くほど世界の大きな舞台が」…川風の街、七色の光#61
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紫の風景の中でみんなと共に育ち、そして旅立ちの日…
2016年7月5日、浅野拓磨選手は会見の席で「少しでも広島に恩返ししたいという気持ちはあります。やはり市民球場跡地にサッカースタジアムができることを、僕も願っています」と話して、同月17日、エディオンスタジアム広島でサポーターに別れを告げました。
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今度は川辺駿選手の番です。そう、これは川風の街、七色の光の中で、高みを目指した人に、順番にやってくる別れと出会いの時、なのです。
今回も同じように7月3日、エディオンスタジアム広島でサポーターにあいさつした川辺駿選手は4日に会見に臨み、5日に広島空港から成田に入り6日スイスへ…
直行便なら今頃(日本時間6日午後4時)まだ“旅半ば”です。
「コンビニあるんかな?」「24時間はないよ」「マックの割引使えんのか?」
「ぜったい寂しいでしょ!」「涙でる…」
みんなと最後の日に交わしたそんな言葉を、もしかしたら機内で思い出しているかも…
でも、広島生まれ、広島育ち、広島魂を胸に海外挑戦の夢を掴んだからにはここからが勝負。スーパーリーグでの戦いは、欧州のさらなる大きなリーグの舞台へ、そして森保ジャパンが目指す2022年W杯カタール大会へと繋がっています。
1993年10月28日 、カタールの首都ドーハの砂漠の街の中に忽然と立つ(当時)アルアリ・スタジアムで行われたW杯米国大会切符を懸けた日本代表対イラク代表戦、そう「ドーハの悲劇」…
95年9月8日生まれの川辺駿選手はそのことを資料や映像でしか知りません。サンフレッチェ広島には今津佑太選手、荒木隼人選手、浅野雄也選手、森島司選手など同世代、近い世代の選手が大勢います。みんなの夢も背負っています。
でも、直接は知らなくても肌感覚では伝わってくるものがあります。日本サッカー新時代の訪れを告げた、あの「悲劇」の深みを…
「悲劇」のピッチに崩れ落ちたオフトジャパンのメンバーのひとりが、その時の忘れ物を取りにドーハにまた乗り込みます。サンフレッチェ広島を3度頂点に導き、五輪との兼任で誰もやったことのない日本代表の構築を進める森保一監督。その、そばにいれば分かることがたくさんあります。
カタール大会のアジア最終予選開幕は9月2日、スイスリーグ開幕は7月25日。これまでとは比べ物にならないほど時間が加速して、環境も激変し続けます。
広島空港までの車中で見慣れた風景を眺めたあと、川辺駿選手はこう言いました。
「ずっと育ってきた場所なんで寂しいですけど、自分がそういう舞台に行くと考えれば離れなきゃいけない。また帰ってくることもありますし、成長して帰ってこれるようにしたいですね」
森保一監督が世界と渡り合うためのキーワードは「日本人らしさ」。そこには「広島らしさ」も重なっているはず…
広島空港で最後に手を振る川辺駿選手、やっぱり少し寂しそうでした。でも、今はもうみんなの言葉を勇気に変えて…
スポーツでもっと幸せな広島へ
「上に行けば行くほど世界の大きな舞台があるので、一番の目標をそこに置いてやっていきたいですし、そこに立つことが日本人としても広島を代表して行く選手としても大きな舞台だと思うので、そこからの景色を見たいですね」
スイス経由で“世界の頂き”を目指す新たな挑戦の始まりです。
川辺駿選手の所属するグラスホッパー・クラブ・チューリッヒの拠点から東へおよそ1時間、ザンクト・ガレンを走るパノラマ鉄道(ひろスポ!スイス取材班7月1日撮影)
※「川風の街、七色の光」は、戦前戦後を通じて広島の人々の生活に深く関わってきたスポーツのある風景を、この街の未来に繋げていくために”そのまま切り取って”残しておくひろスポ!連載コーナーです。(田辺一球)