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2023年12月28日
編集部

限りなく透明に近いドジャーブルー、大谷翔平、そして山本由伸…黒田博樹も投げたカリフォルニア物語の新たな幕開け(Ⅳ)

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黒田博樹
  • 3

    飛翔会

  • 2

    ダグ

  • レッドヘルメット

画像は2007年11月5日、FA宣言することをカープ球団に伝えるため広島市民球場(当時)にやってきた黒田博樹さん(スポーツコミュニケーションズ・ウエスト発行のCARP2007-2008永久保存版より接写)

 

NHKからのクリスマスイヴの贈り物、「メジャーリーガー大谷翔平2023 伝説と代償そして新たな章へ」が12月24日午後9時からのNHKスペシャルでオンエアされました。

 

NHKプラスでも配信されています。ご覧になった方は多いでしょう。

 

クリスマスのドラマはほかにもあります。2014年12月26日、黒田博樹さんは「僕、帰ります」と電話でカープの鈴木清明球団本部長に伝えました。”まさか”が現実になった瞬間でした。

 

ドジャーブルーの背番号18、日本人投手の系譜…

 

黒田博樹、前田健太、そしてきょう12月28日(現地時間27日)、右胸に「18」の山本由伸がドジャースタジアムで入団会見…

 

ひろスポ!では、クリスマスは終わりましたが引き続き特別企画として、コイの街のダイアリー|田辺一球|note で連載中の「限りなく透明に近いドジャーブルー」を一挙連載します。今回はその4回目、です。

 

カープダイアリー第8473話「限りなく透明に近いドジャーブルー、”成功”の秘訣は素早い対応力にあり」(2023年12月25日)

「まだ野球がしたいんです」

夏の甲子園6発の金看板を背負い、2017年ドラフト1位でカープ正捕手を目指した中村奨成の言葉らしい。夕方、日刊スポーツなどが、後がなくなり護摩行を希望した、との記事をアップした。

1998年ドラフト6位入団の新井監督は当初、91年ドラフト4位入団の金本知憲さんに“弟子入り”していた。顔や手足に火傷の水膨れができる護摩行にも同行した。実働21年のアキニ、同20年の新井監督。ふたりが残した数々の記録を見れば、荒行は無駄ではなかったことになる。

護摩行は今も曾澤、堂林ら現役選手に引き継がれオフの一大イベントになっている。中村奨成から参加の打診を受けた曾澤が、この日、番記者らにその事実を明かした。

だが、もう難しい。

中村奨成 より1年早くドラフト4位入団で“ポスト曾澤”を目指すことになった坂倉は今季、120試合に出場して推定年俸1億2500万円で契約更改した。11月のアジアプロ野球チャンピオンシップでは、侍ジャパン正捕手への“橋頭保”も築いた。

新井カープ2年目となる来季を見据えた場合、中村奨成には居場所がない。現役ドラフトでも球団作成のリストにその名が乗っていたはずだが、指名してくれる球団はなかった。

マスメディアは決して記事の中で触れようとしないが、10月19日の文春オンラインで「<証拠写真多数>『頬に手を添えて引き寄せるように…』カープ中村奨成 (24)“車中不倫キス動画”不倫相手の夫には自筆の謝罪文提出」と報じられた時点でアウト?何度でも同じことが繰り返される。今さら「まだ野球が…」と言われても…という状況だ。

宮崎市内で行われていたフェニックス・リーグに参加中だった中村奨成は、文春報道の直前から忽然と姿を消した。限りなく澱んだ赤…松田元オーナーの特別な配慮がなければ、とっくの昔に戦力外通告だ。

NHKスペシャル「メジャーリーガー大谷翔平2023伝説と代償そして新たな章へ」には、生涯703ホーマーのアルバート・プホルスさんも“出演”する。

カリフォルニア・エンゼルス時代に大谷翔平の“進化”を間近で見ていたスラッガーは、「成功」の秘訣が「素早く」アジャストすることにある、と強調する。

広陵・中井哲之監督は「バスケなど球技をやらせても抜群の運動能力を発揮する、天性の素質を備えている」との期待の言葉とともに、教え子をプロの世界に送り込んだ。

ただし「線の細さ」を指摘する関係者の声は当初から存在していた。ゆえにカープに入団したからには徹底的なフィジカル強化によってのみ、プロの水準に達することができるはずだった。

その努力を怠り、寮生活1年目から女性問題が取り沙汰されていた。SNS時代の選手、アスリートには自らを律する力が求められる。

 

NHKスペシャルの中では、大谷翔平自身も進化していくための条件について語っている。自分がイメージする動きに近づこうと思えば、それに見合った練習を繰り返すことになるが、フィジカル面の条件を満たしていなければ、何も始まらない。160キロの真っ直ぐや、柵越え量産のための150メートルという飛距離を叩き出すのは超人的な肉体のみ…

己を知り、己を鍛え、好奇心や向上心を常に抱きながら己を「デザイン」する。しかも早いうちから、そんな日常を送るルーティンを身に着ける。

その気の遠くなるような積み重ねという土台が大きければ大きいほど、何かのきっかけで、新たなスキルを自分の中にもたらしてくれる可能性が高くなる。強固な土台がなければ、何をやってもうまくいかないのである。

 

 

 

カープダイアリー第8474話「限りなく透明に近いドジャーブルー、剛腕の証明、昭和から平成へ」(2023年12月26日)

剛腕の証明…

黒田博樹さんのピッチングスタイルを、その5文字でずっと追いかけてきたメディアがある。タイトルを変えながら続くそのネット媒体、今では「コイの街のダイアリー」となっている。

「幸せだった…」というカープでのプロ野球生活は、1997年から2007年までの11シーズンと2015年、16年の2シーズンで、その間にロサンゼル・ドジャースでの2008年から11年までの4シーズンと12年から14年までのニューヨーク・ヤンキースでの3シーズンが存在する。メジャー名門2球団をNPBローカル球団でサンドイッチ。こんなプロ野球人生はそうそうないだろう。

 

 

まだ黒田博樹さんが一軍で思うように勝てずにいたころ、「ミスターパーフェクト」外木場義郎さんが、2月の沖縄キャンプブルペンを訪ねたことがある。そして、そのピッチングを見るなりつぶやいた。

「しっかり腰の左サイドでバッターに向かっていってますし、腕と足のバランス、使い方が素晴らしい。これで勝てない方がおかしい」

真っすぐとカーブだけでパーフェクト1回、ノーヒットノーラン2回、という昭和の剛腕の言葉には重みがあった。

しかし黒田博樹さんは、初の二桁勝利に届く13勝をマークするまでに5年を要した。どうすればこの世界で生きていくことができるか。素早く対応しようと試行錯誤を重ねたのである。

 

 

 

「最初はね、ちゃらんぽらんな時期も確かにありました。でもね、若いころから自分で考えて高いレベルを目指すタイプでした。周囲に流されることもない。選手会長になってからは、カープを良くしていこうという気持ちが一段と強くなりましたね。なんだ黒田か、と思われるようなことは、絶対にしたくないんですよ」

中四国一の歓楽街、流川の高級ビルでクラブを営むオーナーの言葉だ。

当時のカープの指揮官、山本浩二監督の起用法は「これでもかと、というぐらい…」(黒田博樹さん)続投を優先させるものになっていた。

12勝した2001年は第二次山本政権の1年目で27試合、190イニングを投げ13完投。2003年には205回と2/3で8完投…

こうした過酷なピッチングスタイルは肩や肘への必要以上の負荷というデメリットがある一方で、「エースの条件」をその手で掴み取るためのメンタルの強さを醸成することになった。

 

 

迎えた2004年には球界再編の嵐が吹き荒れ、近鉄に続く「カープ消滅の危機」が現実になりかけた。翌2005年、山本カープラストイヤーで選手会長になった黒田博樹さんは、どうすれば多くのファンに球場に足を運んでもられるか、を思案し球団に様々な提言を行った。「車を運転していてもつい考えがそっちの方にいってヒヤッとしたこともある」というほどだった。

と同時にマウンドでも剛腕をうならせた。212回と2/3で12完投、15勝で最多勝利投手になり、初のホームラン王になった”キング新井”とふたり、カメラの前でポースを決めた。八面六臂の活躍、とはこういう状況を指すのだろう。

2006年からはマーティ・ブラウン新監督の下で「中4日限定110球、36試合登板」を打診された。実際に中4日、中5日登板を続けて7月、8月はともに4勝0敗。しかし9月に右肘の違和感を訴えて戦線を離脱した。そして10月16日、旧広島市民球場でのシーズンラストゲームでマウンドに戻ってきた。8月31日の巨人戦(ヤフードーム)で13勝目をあげてから46日ぶりの登板だった。

この夜、リリーフカーに乗ってマウンドに向かうエースの背中にカープファンから大きな声援が送られた。ライトスタンドには「黒田残留」を願う旗か横断幕。数百人の手描きの願いが記された大きな幕にはこう書かれていた。

「我々は共に闘って来た 今までもこれからも…… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース黒田博樹」

中日打線相手に九回、二死から4球を投げた黒田博樹さんは、この日、日米通算20シーズンで唯一のセーブをマークすることになった。そして「男気」の2文字がついて回るようになるのである。

 

 

カープダイアリー第8475話「限りなく透明に近いドジャーブルー、剛腕の証明ロサンゼス編」(2023年12月27日)

1・85の素晴らしい数字で防御率のタイトルを手にする黒田博樹さんの、2006年シーズンラスト登板はわずか4球で終わり、生涯唯一のセーブがついた。

だが、ただのセーブではない。2004年の球界再編で存続が危うくなっていたカープ球団と、カープファンに手を差し伸べる、それもまた「剛腕」の使命になっていた。だから「男気」という表現が使われるようになったのだろう。

 

 

同年」5月にFA権を取得したエースに対して「FA宣言か?」「阪神移籍濃厚」「巨人か?」の新聞報道が先走る中、黒田博樹さんは11月6日、衝撃の残留宣言をして会見でこう語った。

「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」

「全国に12しかプロ球団はないんです。その中のひとつが広島県にある。僕も県民、市民です」

「住んでいる土地に球団があるのはすごいこと。僕自身がカープの大きさを感じています。そして、僕らのやるべきことも…」

「もう1回、選手も考え直して強くならないといけない。そしてファンの人の力は大きい。スタンドを見れば、選手は燃えます。ファンの人はもっと選手に訴えて欲しいと思う。(残留宣言の決め手となった10・14と10・16の旧広島市民球場スタンドは)想像を超えていた」

「正直、ガラガラの試合もあるけれど、集まる時は集まるんです。パワーを感じます。みんなカープが好きなんだ、と…」

 

広島に来てちょうど10年目の一区切り。おそらく残留か否か、最後まで迷っていたはずだ。「黒田さん、FA宣言しないでください」。当時はまだファンが自由に出入りできた大野二軍練習場で小さな女の子からそう言われた(親に言わされた?)黒田博樹さんは真顔で「それは分からないよ」と答えたという。

そのオフ、マーティ・ブラウン監督の紹介もあり、ロサンゼルスで右肘のクリーニング手術を受けた。2007年の“立ち上がり”を心配する声もあったが、同年3月4日のオープン戦登板で楽天打者のバットをへし折って見せた。

このころになると「ファンサービス」改革に取り組むカープ球団の努力が目に見える形で実り始めてもいた。街中に「CARP」の文字が溢れるようになったのだ(今では当たり前のことではるが、当時はそうではなかった)。

そして3月30日の京セラドーム大阪。マウンドに上がったのはやはり「5年連続開幕投手」の剛腕、だった。

 

 

この年、背番号15(2016年オフに永久欠番)が、旧広島市民球場のマウンドに上がったのは9月27日のヤクルト戦が最後になった。132球完投勝利。それでもチームは5位ヤクルトに「2差」の最下位という状況だった。エースの最終成績は26試合、179回2/3を投げて7完投、12勝8敗、防御率3・56。

この年の11月、当時「新球場」と呼ばれていた現在のマツダスタジアムの建設工事が2009年春の完成を目指して始まった。

同じ11月5日、スーツ姿のエースは旧広島市民球場内の球団事務所を訪ね、FA宣言した。

そして「剛腕の証明」の舞台は広島からロサンゼルスへと移った。2008年4月4日午後7時過ぎ、(日本時間5日後前11時過ぎ)、敵地のサンディエゴでメジャーデビュー戦のマウンドに上がり見事、初勝利を掴み取った。

 

 

カープダイアリー第8476話「限りなく透明に近いドジャーブルー、新たな18番で日本最強が、世界最強だと証明してくれ」(2023年12月28日)

2008年4月4日(現地時間)、アメリカ西海岸最大の軍事都市、サンディエゴ市にあるペトコ・パークのマウンドに、ドジャーブルー18番をつけた日本人投手が上がった。広島育ちの剛腕は、メジャーデビュー戦で初勝利を掴んだ。

2016年4月6日、また広島育ちの右腕が同じマウンドに上がった。

1シーズンではあったが、前年(2015年)に「剛腕」の何たるかを、日南や沖縄キャンプのブルペン、あるいはマツダスタジアムのブルペンで目の当りにして、尊敬する「黒田さん」にその背中を押された前田健太…

結果は6回無失点で勝利投手。打ってはメジャー初安打がホームラン。カープ時代と同じ18番をつけて、やはりカープ時代と同じ二刀流でデビュー戦を飾ったのである。

 

 

そしてきょう、みたび日本人投手がドジャーブルー18番に身を包んだ。

現地時間の21日(日本時間22日)にロサンゼルス・ドジャースと12年総額3億2500万ドル(約465億円)で契約した山本由伸。日本から駆け付けたメディアが「いつ始まるのか?」と待ち続けていたその入団会見は、27日午後3時過ぎ(同28日午前8時過ぎ)に始まった。

球団から入団発表があってわずか3時間後のスタートとなっても日米計100人が会見場に集まった。15日に大谷翔平がドジャーブルーの17番を披露してからわずか10日に、またまたアニメの世界を地で行くような、夢のような光景が現実のものとなった。

 

 

「Good afternoon. My name is Yoshinobu Yamamoto of the LA Dodgers. I am beyond excited to become a member of this historic franchise and cannot express how much it means to me to be able to call Los Angeles may new home. 」

ブランドン・ゴームズGMにその勤勉さを十分に紹介されたあと、スピーチ冒頭は英語で行われた。その投球や野球への向き合い方と同様、フレキシブルかつインテリジェント。日本語に切り替えてからは「きょうからは、ドジャースの一員としてワールドチャンピオンになるために、もっと野球がうまくなれるよう、新しい毎日を過ごしていくことを、ロサンゼルのファンのみなさまにお約束します」とした。

一度、英語で考えた言葉を日本語にしている。細部に渡って理知的な人柄がうかがえる。

そして…

「きょうからは、本当の意味で…憧れるのをやめ、ければ…やめなければいけません。えぇ、自分自身が憧れてもらえるような選手になれるよう、えぇ、がんばります…テンキュー」

途中、苦笑いになった山本由伸は全部を話し終えると通訳担当の代理人事務所スタッフに「一番いいとこ、噛みました」と小声で伝えた。

 

 

その後は質疑応答に移り「ドジャース決断の理由は?」と問われると「本当に勝ちたいという気持ち、勝ち続けたいというところが自分の中でも優先順位に置いていた。そこに一番近いのはドジャースじゃないかなと感じたので、決断しました」と答えた。

大谷翔平に関連する質問にもシンプルに回答した。仮に大谷翔平がいないドジャースでも入団していたであろうこと、でもWBCでも共に戦った大きな存在があったことが決断を青通しした理由になったことも打ち明けた。

会見の模様はドジャーズ公式Xでも伝えられた。マウンド付近で「Hey Dodgers fans, see you soon!」と呼びかける動画や、オフィシャルショップで購入した商品を披露する動画、大谷翔平のユニホームがスラリと吊り下げられている店内での画像。そして球場入りから会見の模様、ロッカールーム、スタン・カステンCEO(球団社長)らとスタジアムの一室で乾杯する様子なども、ドラマティックな編集動画によって披露され、瞬く間に10万単位のアクセスがあった。

 

 

日本国内でも話題をさらう動画がアップされた。送信元はほかでもない、オリックス・バファローズだった。

リーグ戦とCSと日本シリーズで山本由伸が投じた全14470球をドットにしてその笑顔をポスターにして発表した。「泣ける!」の声が殺到したのは言うまでもない。

そこにはドジャースのプロ魂とも共通する、送り手側のプロフェッショナルな感謝の言葉と応援メッセージも添えられていた。

重力無視のストレート、
魔法みたいな変化球、
笑ってしまうほど精密なコントロール。

バファローズで投じた14470球、
そのすべてにありがとう。

正直めちゃくちゃ寂しいけれど、
行って欲しくない気持ちもあるけれど。
だけど、やっぱり、
アメリカで無双する山本由伸が見てみたい。

いけ、由伸、
僕らの手の届かないところまで<

日本最強が、世界最強だと証明してくれ。

Buffaloes

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