解体される広島市民球場、球場解体と同時進行でスタジアム整備を進めていれば、もうとっくにサッカー専用スタジアムは完成していた。広島市が”マツダスタジアム新設”を決めたのは2005年5月。もうすぐ10年になる…。
広島市の“肝いり”で昨年6月にスタートしたサッカースタジアム建設協議会が本会議だけでも18回の会合を重ね、近いうちに最終的な「提案」を行う。
同協議会設置の「目的」には「広島におけるサッカースタジアムについて、その規模、建設場所、管理運営方法、事業スキーム、事業収支、類似施設との棲み分けなどといった整備に係る諸課題について議論し、解決策(あるべき姿)を取りまとめ、行政や経済界へ提案する」とある。その「提案」の深みが注目される。
一方で同協議会は40万件を超える「サッカースタジアム建設の早期実現」を望む声(署名)によりスタートした、という大前提がある。要するに「いつ、だれがどこにどんなスタジアムを作り運営するか?」の答えが今回の「提案」の一番重要な部分になる。
もしもその点があいまいな「提言」がなされるようであれば協議会は“本末転倒”ということにもなりなねない。
サッカースタジアム建設は広島市、あるいは広島県にとってもう20年以上も“ムダな時間”を過ごしてきた“緊急行政課題”にほかならない。
今回は2011年12月22日にWEBサイト「田辺一球広島魂」に掲載された「スタジアム後手でサンフレ危機」を一部加筆して掲載する。http://hiroshimadamashii.com/shiminkyuujou/contents.cfm?id=661
(文責・新サッカースタジアム問題取材斑)
スタジアム後手でサンフレ危機
2011年12月22日
中国新聞の今日付朝刊が「サンフレッチェ広島減資」のニュースを伝えた。先ごろ、高額な年俸がネックとなってクラブ史上最高と評されるペトロヴィッチ監督との契約を見送り、クラブ生え抜きの森保新監督を迎えたばかり。しかし、長年の借金体質からクラブが抜け出すためには、こうした思い切った手が次々に必要となっている。
新聞報道によれば、資本金21億円のうち99パーセントを債務圧縮に回して、20億円を超える累積損失を5000万円まで圧縮。それと並行して、既存株主、スポンサー各社などに対して、約2億円を目標に協力を求め、増資を図る。
Jリーグでは来年度からクラブの経営状態を詳細に審査するクラブライセンス制(文末に補足)が導入される。Jリーグ市場も日本経済と同じく縮小傾向に歯止めがかからないため、Jリーグとしては各クラブの経営安定化を急ぐのが狙いだ。
現在、Jリーグ全38クラブ中、累積黒字の経営は7クラブしかない。サンフレの10年度、20億円の累損はJ2にいる京都の38億円に次いで多い危機的状況にあるという。
今後、どこまで資本金を上積みできるかにもよるが、減資によってもうあとがないサンフレッチェ広島は来年度以降、単年黒字化路線を歩むしか残された道はなくなった。
そのためには、安定した収益の確保が第一で、何よりも望まれるのが観客動員のアップということになる。
Jクラブの収益の3本柱は入場料収入、グッズなどの販売収入、スポンサー収入。そしてJリーグからの分配金がここに加わる。観客動員力を高めることで、あとの収益もついてくる。
その点からいけば、動員力アップの起爆剤となる、新スタジアム構想がもう10年以上に渡り「構想の段階」から次のステップに進んでいないことは大きな問題と言える。
Jリーグ発足当時は全国に広島を含めて10クラブだった。その10クラブのホームタウンは茨城県鹿島町など近隣地域、埼玉県浦和市、千葉県市原市、神奈川県横浜市と川崎市、静岡県清水市、愛知県名古屋市、大阪府吹田市。(いずれも当時の行政区域)
その中で未だにサッカー専用スタジアム(ラグビーなど球技共用含む)を持っていない都道府県は広島と大阪だけ。その大阪では紆余曲折を経て、今年10月にG大阪が約3万2千人以上収容のサッカー専用スタジアムを大阪府吹田市の万博記念公園内に建設する方針を固めた。
スタジアムはスタンド部分が屋根で覆われ建築費用約150億円の大半を企業やファンからの募金で賄う方針。親会社のパナソニックなどから約80億円を調達するめどが立っている。
受け入れる自治体側では、12月20日の吹田市議会文教市民委員会が全会一致で議案を可決し26日の本会議もクリアする見通しとなっている。
あとからJリーグに加わったクラブのホームタウンの自治体でも続々とサッカー専用施設が建設される中、「オリジナル10」で最後に残されたのが広島…、という、かつての「スポーツ王国」にあってはならない事態が現実とものとなっている。
1996年12月、2002年日韓W杯共催の国内会場に有力視されながら「ビッグアーチには屋根をかけない。サッカーは傘をさしながら観戦できる」と発言して「落選」の悲哀を見た、当時の平岡敬広島市長の「判断」でケチがつき始めた広島のサッカー界…。一方で広島がW杯会場から落選した変わりに繰り上げ当選した新潟は今やJリーグ観客動員数トップ3を誇る先進地に転じることになった。客観的に見て、その悪い流れはそのまま、1999年2月に初当選した秋葉前市長の時代に引き継がれていくことになった。
2003年の市長選挙で秋葉前市長は選挙戦の公約に「サッカースタジアム」を掲げていたが、市長選後にサンフレ担当者らが期待を胸に市役所に秋葉前市長を訪ねると「私はみなさんが造るなら協力していきましょう、と言ったまで」とその発言内容は大きくトーンダウン。当時、地元では大きなニュースになってはいたがこの件を境にスタジアム建設の熱意はイッキに冷え込んだ。
その後、関係者の間では「広島市が負担しないでいい形で、広島市民球場跡地を活用したサッカー場プラン」を立案し、広島市に提案する動きもあったが、こちらはニュースにさえならなかった。
秋葉市政の目玉のひとつとしてこの時期、盛んにメディアに取り上げられていた旧広島市民球場跡地活用策の問題では、民間コンペにより決まったとされる「折り鶴展示施設」などに報道の目が向き、市民らからの要望が特に強かった「観光・賑わい施設」や「サッカー場」などの声は大きなうねりとはならなかった。
そのころ「広島・長崎五輪構想」を掲げた秋葉前市長は寄付金と県内既存施設を活用してのオリンピック実現へ向け「招致計画」を進めていった。
一方ではアマチュアスポーツ最大の祭典を推進しながら、もう一方ではJ1リーグのホームタウンなら当たり前となったサッカースタジアムの建設さえままならない…。そんなダブルスタンダードがまかり通る、何とも悔いの残るスポーツ行政が1994年の広島アジア大会開催以降、継続的に繰り返されていた、ということにもなるだろう。
広島市がカープの本拠地として新球場を貨物ヤード跡地に建設することを発表したのは広島アジア大会開催から11年後の2005年6月だった。
広島県内各界のトップが集う新球場建設促進会議では「オール広島」での「現在地建て替え」を決定したが、広島市が「現在地建て替えは困難」と発表し、同年10月の市議会でヤード跡地建設向けての予算が初めて承認される、という経緯を辿った。
…ということは、この時点でサンフレッチェ広島がすでに建設候補地に挙げている旧市民球場跡地への「サッカー場」建設を決めていれば、とうの昔にその「構想」は「実現」していたということになる。国内自治体の中には非常に短い期間でスタジアム建設を実現したところがある。6年もあれば十分だろう。
ところが旧市民球場は今、9割方その解体を終えただけ。世界遺産の原爆ドームに隣接する世界的にも稀有なこの空間には、次に何を創るのかさえ、まったく決まっていない状態にある。
こうした経緯を見返していくと、サンフレッチェ広島自身が経営課題の克服に汗を流すことは当然ながら、長らく県民、サポーターから要望の声が上がってきた「サッカー専用スタジアム建設構想」に手をこまねいてきた自治体、県サッカー関係者の問題意識の希薄さが、サンフレッチェ広島の経営を“崖っぷち”に追い込む要因になったことは否定できない。
事実、ここ10数年で放映権料収入が「10億円の単位」(関係者)で減少して一時期、経営危機に直面していた広島東洋カープは、新たなビジネスモデルを構築していく必要性に迫られる中、新球場「マツダスタジアム」というハードを最大限に活用することで、巨人、阪神などと共に国内12球団でも少数派の黒字経営を続けている。
J誕生から20年間、カープと並ぶ地域の宝として県民共通の象徴、財産である、サンフレッチェ広島が大きな試練を迎えていることは、広島市民、県民にとっても大きなマイナスである、という観点から、スタジアムの早期完成は行政課題の最優先事項、である。明確なスタジアム完成時期の決定が広島に活力をもたらすことにも直結する。
参考)Jリーグのライセンス審査について
審査に5つの分野があり、柱は三つ。
1、育成年代の整備
2、競技場整備
3、財務・法務
具体的には、3年連続で赤字を出したJ1のクラブはJ2に降格させる方向で調整中。毎年、各クラブの財務面、施設面などが厳しく審査され、その結果でライセンスが交付される。ライセンスを取得できないクラブはJ1、J2に参戦できず、JFLへ降格する。
新サッカースタジアム取材班